角川文庫
かけぬける愛
[#地から2字上げ]赤川次郎
プロローグ
「まだ着かないの?」
じりじりしている声など、一向気にもとめる様子はなく、タクシーの運転手は、のんびりと、
「この時間は仕方ねえんだよ。どこを通ったって|似《に》たようなもんさ」
と、少し流れ出した車の動きに合わせながら答えた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ、お母さん」
|村《むら》|山《やま》|朋《とも》|子《こ》は、母親をなだめるように言った。「まだ間に合うわ」
「でも、すれすれじゃ|困《こま》るんだよ」
母の|久《ひさ》|代《よ》がのび|上《あが》って、前の車の、気が遠くなるような行列を見やった。
そろそろ|黄昏《たそがれ》|時《どき》で、|青紫《あおむらさき》の空に、丸の内ビル|街《がい》の|窓《まど》の明りが|浮《う》かび上って見えた。
「ほら、もう駅が見えたわよ」
と朋子は言った。
「|降《お》りて歩こうか」
「まだ遠すぎるわ」
と|朋《とも》|子《こ》が母の手を取る。「|大丈夫《だいじょうぶ》。落ち着いて」
「朋子、そんな|呑《のん》|気《き》なことを……」
「お父さんがそんなことするわけないわ。思い|過《す》ごしよ」
「お前には分らないのよ」
久代は、ろくに|娘《むすめ》の言葉など耳に入らないようだった。
タクシーは、やっとスムーズに走り始めた。そこはプロの|腕《うで》で、かなり|混《こ》み|合《あ》った道を、一気にスピードを上げて、他の車の間を|縫《ぬ》って走って行った。
東京駅の前にタクシーが|停《とま》ると、久代は先に降りて、|駆《か》け|出《だ》して行った。朋子は急いで|財《さい》|布《ふ》から五千円|札《さつ》を出すと、
「おつり、いりませんから」
と|手《て》|渡《わた》して、母の後を追う。
「――お母さん! |入場券《にゅうじょうけん》、買わなきゃ入れないのよ!」
改札口の少し手前で、朋子はやっと母に追いついた。「待ってて、すぐ買って来るから」
「早くして。もう列車が出ちゃうから……」
母親が、これほど|取《と》り|乱《みだ》しているのを見たのは初めてだ。朋子は|券《けん》|売《ばい》|機《き》の方へと走りながら、|小《こ》|銭《ぜに》|入《い》れから|硬《こう》|貨《か》を出した。――入場券、入場券……。あそこだ。
二|枚《まい》買って|戻《もど》ると、もう久代は改札口の前で、|居《い》ても立ってもいられない、という様子。
「さあ、入って。|私《わたし》が出すから」
入場券にパンチを入れてもらっている間に、久代は通路を|駆《か》け|出《だ》していた。夕方の東京駅である。人ごみの中に、たちまち|紛《まぎ》れてしまいそうになる。
朋子は人をかき分けて、やっと母に追いついた。
「まだ十分ぐらいあるわ、|大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「何番線だね?」
「十番。ずっと先よ」
「まあ、反対側から入ればよかったね」
久代はもう五十を|越《こ》しているので、|和服姿《わふくすがた》でもあり、急いだところでそう早くは進めない。朋子のように、OLとして毎日ラッシュアワーの電車やホームに|慣《な》れている人間とは|違《ちが》う。
「お前、先に行っておくれ」
息を切らしながら、久代が言った。「お父さんを見つけたら、放すんじゃないよ」
「じゃ、十番線よ、間違えないでね」
「分ってるよ」
朋子は、人の流れのわずかな|隙《すき》を|縫《ぬ》って、先を急いだ。国電ホームへの|階《かい》|段《だん》を|過《す》ぎて、列車のホームの下まで来ると、|混《こん》|雑《ざつ》は大分楽になる。
〈 10 〉とある|階《かい》|段《だん》を、朋子は|駆《か》け上った。
「まさか……お父さんが、そんなことを……」
息を|弾《はず》ませながら、朋子は|呟《つぶや》いた。
一七 ・ 〇〇発|寝台特急《しんだいとっきゅう》「みずほ」。これに父が乗っている、というのだった……。
発車五分前だった。ホームには、見送りの人と|歓《かん》|談《だん》する乗客の|姿《すがた》が方々に見られた。朋子はともかく、ホームを|端《はし》まで歩いてみることにした。
父親の姿なら、遠くから見てもすぐにそれと分るはずだ。ゆっくり見て回っている|暇《ひま》はない。朋子は小走りにホームを駆け|抜《ぬ》けた。
売店で|週刊誌《しゅうかんし》を買う者、|弁《べん》|当《とう》を買う者、今になって荷物をかかえて|駆《か》け|込《こ》んで来る者。――中年の、|背広姿《せびろすがた》の|男《だん》|性《せい》が通ると、朋子の目が|一瞬《いっしゅん》引きつけられた。だが、父の姿はなかった。
もう中にいるのだとしたら……朋子は手近な入口から列車の中へ入った。もう発車まであまり間がない。通路は人でふさがって、なかなか進めなかった。
「すみません……失礼します……」
一両、二両、三両――。アナウンスが、発車時間が近いので、見送りの人は列車から|降《お》りるようにと|促《うなが》していた。
もう二分ほどしかない。通路は|却《かえ》って空いてしまったが、とても全車両を見て回ることはできない。
一分前になった。仕方ない。朋子はホームへ出た。母が、十メートルほど先で、オロオロと周囲を見回している。
「お母さん!」
「朋子! お父さんは?」
「見つからないわ。きっと乗ってないのよ」
「そうならいいけど……」
久代の口調は、全くそう信じてはいないことを物語っていた。――|夫《ふう》|婦《ふ》というものの、一種の|勘《かん》なのだろう。|夫《おっと》はここに来ている。久代はそう信じているらしかった。
ベルが鳴り出した。
「もう発車よ」
「乗ってるんだよ、きっと。あの女と|一《いっ》|緒《しょ》に……」
|弁《べん》|当《とう》を売っている|手《て》|押《お》し車が、近くで止まった。
「はい、二つで一千二百円。――どうも。三百円のお返しね」
「つりはいい」
と、答える声に、朋子の顔から血の気がひいた。
久代もそれを聞きつけていた。
弁当を二つかかえた父が、列車へ|乗《の》り|込《こ》もうとしている。
「お父さん!」
朋子の声に、乗車口へ|片《かた》|足《あし》をかけていた父が|振《ふ》り|返《かえ》って、|愕《がく》|然《ぜん》とした|表情《ひょうじょう》になった。
「あなた!」
久代が|駆《か》け|寄《よ》ると、|夫《おっと》の|腕《うで》をつかんだ。
「久代、放せ!」
「|誰《だれ》が放すもんですか」
久代が声を|震《ふる》わせた。「自分が何をしてるのか、分ってるんですか、あなたは?」
「放っといてくれ!」
久代の手を|振《ふ》り|払《はら》おうとして、|弁《べん》|当《とう》がホームに落ちた。
「行かせませんよ! あんな女と――」
「そんな話は|沢《たく》|山《さん》だ!」
と、村山の方も、|頬《ほお》を|紅潮《こうちょう》させている。
ベルが鳴り終えた。発車時間なのだ。
「お母さん――」
朋子が足を|踏《ふ》み|出《だ》した。同時に、父が母を|突《つ》き|飛《と》ばすのを、朋子は見た。母がよろけてホームに|倒《たお》れる。
「お母さん!」
「いいから! お父さんをつかまえるんだよ!」
久代が|叫《さけ》ぶように言った。だが、そのとき、ドアが|滑《すべ》るように|閉《と》じていた。
ゆっくりと列車が動き出す。
「しっかりして……」
|抱《だ》き|上《あ》げると、久代は、朋子の手を払いのけて、列車について歩き出した。
「|危《あぶ》ないわ、お母さん」
列車がスピードを上げる。久代の足では、|到《とう》|底《てい》追い切れるものではなかった。
「お母さん! やめて!」
追いついた朋子は、母を抱きとめた。「もうむだよ!」
久代は、|燃《も》えるような|眼《まな》|差《ざ》しで、遠ざかって行く列車を見送っていた。
二人はしばらく、そのままホームに|立《た》ち|尽《つ》くしていた。久代は急に全身の力が|抜《ぬ》けたように、よろけて、朋子にもたれかかった。
「しっかりして。――歩ける?」
「ああ……|大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
母は|泣《な》いてはいなかった。
「帰ろう。ね?」
「そうね。ここにいたって仕方ない」
もう、ホームには、ほとんど人の|姿《すがた》がなくなっていた。もちろん、それも一時のことで、すぐにまた、次の列車の乗客たち、それを見送る人々でホームは|溢《あふ》れるのだろう。
「朋子」
|階《かい》|段《だん》の方へと歩きながら、久代は言った。
「なあに?」
「お父さんの顔、見たかい」
「ええ……。あんな顔初めてよ」
「列車が動き出した後だよ」
「いいえ、そのときは見てないわ。お母さんが転ぶか、列車にはねられでもしたら、と思って気が気じゃなかったもの」
「お父さん、ずっとこっちを見ていたよ。さっさと席へ行っちゃえばいいのに、こっちを見ていたよ」
「そう」
「いつものお父さんの顔だったよ。|済《す》まなそうにしてた」
久代の言葉は、不思議に、ほっとしたような調子になっていた。
「じゃ……きっと帰って来るわよ」
と朋子は言った。
「それはどうかね」
|階《かい》|段《だん》を、一段一段、|踏《ふ》みしめるように|降《お》りて行きながら、久代は、そっと息を|吐《は》き|出《だ》した。
「これっきり、帰って来ないと思うの?」
「帰れないだろ、お父さんのような|性《せい》|格《かく》の人は」
「女の方で|飽《あ》きて|別《わか》れるわよ、きっと。今はお父さんもわけが分らなくなっているのよ」
「平気で帰って来れるほど図太い人ならねえ、あの人が。――それが心配だよ」
「お父さんのことばっかり心配してるのね」
朋子は、わざと|冗談《じょうだん》めかして言った。
「そうね。本当に、そうだねえ。――|私《わたし》たちのことを心配しなきゃならないよ」
「お母さんはいいのよ。私がついてる。ね、あまりくよくよしないで。病気にひびくわ」
「もう、どうでもいいよ」
母は、不思議に明るい声で言った。朋子は、|却《かえ》って、|泣《な》き|言《ごと》を言わない母に不安を覚えた。
|改《かい》|札《さつ》|口《ぐち》を出ると、タクシーのりばの方へと歩いて行く。
「ねえ、朋子」
と、|途中《とちゅう》で足を止めた久代が言った。
「どうしたの?」
「今、何時なの?」
「五時……十五分くらい」
「そう。――少し早いけど、どこかで夕ご飯を食べて行こうかね」
「いいけど……でも……」
「お|腹《なか》を空かしてたって、お父さんは帰っちゃ来ないからね」
久代は、|笑《え》|顔《がお》でそう言った。朋子は|戸《と》|惑《まど》ったが、せっかく母が気を取り直しているのだから、と、|逆《さか》らわないことにした。
|地《ち》|下《か》|街《がい》へ入って、ごくありきたりのレストランに席を見付けた。
「朋子、あの|特急《とっきゅう》は食堂車がついてるの?」
メニューを見ていた久代が|訊《き》いた。
「ついてるわよ、もちろん」
「そう。それならいいけど……お|弁《べん》|当《とう》、落としちまったからね、お父さん」
女と|逃《に》げた|夫《おっと》の夕食のことまで心配している母の気持が、朋子には|理《り》|解《かい》できなかった。
|夫《ふう》|婦《ふ》というのは、こういうものなのだろうか?
「何を食べる、お母さん?」
そう|訊《き》いて母の顔を見た朋子は、初めて、|涙《なみだ》が母の|頬《ほお》を伝っているのに気が付いた。
第一章
1
その朝は、いつもと同じように始まった。
|村《むら》|山《やま》|朋《とも》|子《こ》は、七時の目覚しで起こされてから、例によって十五分はベッドの中で体を|伸《の》ばしたり、|寝《ね》|返《がえ》りを打ったりしていた。こうする内にやっと体の方も目が覚めて来る。
多少|低《てい》|血《けつ》|圧《あつ》気味なので、調子が出るのに時間がかかる。加えて、いささかの|二日《ふつか》|酔《よい》と……。
昨夜は大学時代の友人と会って、久しぶりに飲んだ。元来がそうアルコールに強い方ではないのだが、このところしばらく|離《はな》れていたせいもあってか、|余《よ》|計《けい》に回りが早かった。そうなると、今度は調子に乗って|飲《の》み|過《す》ぎた――というわけである。
「今日は休もうか……」
起き上ろうとして、|激《はげ》しい|頭《ず》|痛《つう》に顔をしかめながら、朋子は|呟《つぶや》いた。そこへベルが鳴って、あわてて目覚し時計へ手をのばしたが、もう止めたはずだ。気が付くと、親子電話が鳴っているのだった。
「朋子、起きないと|遅《ち》|刻《こく》ですよ」
受話器を上げると、母の声が飛び出して来た。
「はあい……」
母には、何となく|二日《ふつか》|酔《よい》なので休む、とは言い|辛《づら》い。仕方なく、朋子は頭を思い切り|振《ふ》って、起きることにした。
村山朋子は二十五|歳《さい》である。今でも、少し|若《わか》|々《わか》しい|服《ふく》|装《そう》で歩くと女子大生と|間《ま》|違《ちが》えられるので、当人は若さの|証明《しょうめい》だと|自《じ》|認《にん》し、友人たちは|幼《おさな》さの|故《ゆえ》だとからかう。
|年《ねん》|齢《れい》の|割《わり》に|小《こ》|柄《がら》で、全体に学生っぽい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》があるのは事実だった。|化粧《けしょう》も|至《いた》って|控《ひか》え|目《め》だし、|髪《かみ》も|染《そ》めていないし、マニキュアなども、|特《とく》|別《べつ》の場合以外はしていなかった。
大きな|眼《め》の黒い|瞳《ひとみ》が、|独《どく》|特《とく》の|濡《ぬ》れた光を|映《うつ》していて、美人というよりは|可愛《かわい》い顔立ちに、女らしい|色《しき》|彩《さい》を|与《あた》えている。|困《こま》ったときに、ちょっと|唇《くちびる》を曲げると、左の|頬《ほお》にえくぼができる。
その顔が|素《す》|敵《てき》だ、と|惚《ほ》れられた|経《けい》|験《けん》も二度や三度ではない。しかし、朋子の方では、|真《ま》|面《じ》|目《め》に|恋《こい》だの愛だのといったことを考えるには、まだあれこれとしたいことが残っているのだ……。
その顔も、今は|寝《ね》ぼけて、いささか恋もさめようかというところである。
二階の|洗《せん》|面《めん》|所《じょ》で顔を|洗《あら》って、やっと少しすっきりすると、手早く|身《み》|仕《じ》|度《たく》を|済《す》ませる。
七時四十五分には、階下のダイニングルームへ|降《お》りて行った。
「おはよう」
とテーブルに着いて、もう食べ終えた|皿《さら》があるのに気付いた。「お父さん、もう出かけたの?」
「どこか外へお出かけだって」
母親の久代がベーコンエッグを皿にのせて運んで来た。
「|珍《めずら》しいね」
朋子の父、村山|靖《やす》|夫《お》は銀行の|支店長《してんちょう》である。もちろん、のんびりと十時|頃《ごろ》に|出勤《しゅっきん》するというわけにはいかない。八時半には、いつも銀行に|到着《とうちゃく》している。
しかし、今の支店は、|自《じ》|宅《たく》から車で二十分ほどの所であり、都心の方へ、四十分ほどかけて通っている朋子より、出るのは|遅《おそ》いのである。
「コーヒー、もう一|杯《ぱい》?」
と久代が|訊《き》く。
「うん、ありがとう」
久代が、朋子のカップの他に、もう一つのカップにもコーヒーを|注《つ》ぐのを見て、
「お母さんはやめといたら、コーヒー?」
と朋子は言った。
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ、一杯ぐらい」
「じゃ、ミルク入れて、たっぷりね」
「分ってるわよ」
久代は|椅《い》|子《す》を引いて|腰《こし》をかけると、ミルクを入れたアメリカンコーヒーをゆっくりと飲んだ。
|年《ねん》|齢《れい》|相《そう》|応《おう》に、|老《ふ》けて、|髪《かみ》も白くなりかけているが、どことなく育ちの良さ|故《ゆえ》の|若《わか》さを感じさせる。若さ、というより、あまり苦労を知らない者の|無《む》|邪《じゃ》|気《き》さ、とでもいった方が近いかもしれない。
しかし、やや顔色が悪くて、きゃしゃな印象なのは、その通り、少し|心《しん》|臓《ぞう》が弱くて、無理のできない|体《たい》|質《しつ》だからなのである。
「今日は|遅《おそ》くなる?」
と久代が言った。
「そんなことないと思うけど。――どうして?」
朋子が|訊《き》き|返《かえ》したのは、実は今夜は|約《やく》|束《そく》があったからなのである。しかし、母が具合が悪いとでもいうのなら、|断《ことわ》ってもよかった。先に「約束があるの」とでも言おうものなら、決して母は本当のことを言わないからだ。
「|別《べつ》に。夕ご飯の|仕《し》|度《たく》のことよ」
と久代は言った。
朋子は、何となく母が何かを|隠《かく》しているという印象を受けた。しかし、時間に追われる朝に、そんなことをゆっくりと話している|暇《ひま》はない。
「――あ、もう行かなきゃ」
朋子はコーヒーの残りを一気に|飲《の》み|干《ほ》して、席を立った。
「|忘《わす》れ|物《もの》はない?」
|玄《げん》|関《かん》まで送りに出て来た久代が言った。
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ」
朋子は|靴《くつ》をはいて、「――本当に、今夜、用事があるんじゃないの?」
「何もないよ。出かけるなら出かけておいで」
朋子はちょっと|迷《まよ》ってから、
「|杉《すぎ》|岡《おか》さんに|誘《さそ》われてるの」
と言った。
「いいじゃないの。行っておいで」
「大丈夫? もし気分が良くないのだったら――」
「何ともないのよ。変な子ねえ」
と久代は|笑《わら》った。
「ともかく電話するわ、行って来ます」
「気を付けて」
と母の声が、もう|背《はい》|後《ご》に遠ざかっている。
|朋《とも》|子《こ》は、|格《こう》|子《し》|戸《ど》を横へ|滑《すべ》らせて開け、表に出ると、またその戸を|閉《し》めておいた。
真新しい|住宅《じゅうたく》の目立つこの一角でも、村山家は、|敷《しき》|地《ち》の広さや、建物の白い、|洒《しゃ》|落《れ》た|造《つく》りでひときわ目をひいた。
|実《じっ》|際《さい》はそれほどの大きな家ではないのだが、|総《すべ》てにゆったりとした|設《せっ》|計《けい》で、住み心地は満点だった。ぜいたく、と言えばその通りで、何しろこの家に住んでいるのは親子三人なのだから。|掃《そう》|除《じ》などは、久代が|疲《つか》れやすいので、一日おきに、|家《か》|政《せい》|婦《ふ》が通って来る。
村山は、ずっと|住《す》み|込《こ》みで来てもらえと言っているのだが、久代が、他人を家の中に住まわせるのをいやがっているのである。
|子《こ》|供《ども》は|娘《むすめ》二人。朋子が長女で、下に大学へ通う|二十歳《はたち》の|美《み》|幸《ゆき》がいる。家が|窮屈《きゅうくつ》だ、と、そう遠いわけでもないのに、大学の近くに下宿している。
秋の、|爽《さわ》やかな朝だった。少し風は冷たいほどで、足取りも自然に早まる。
そう急がなくとも、|充分《じゅうぶん》に間に合う時間なのだが、やっとエンジンのかかった|若《わか》い体が、自然に|弾《はず》み出しているのである。
「いらっしゃいませ」
と、顔を上げた|窓《まど》|口《ぐち》の銀行員が、朋子の顔を見て、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「お願いします」
朋子は、通帳にメモを|挟《はさ》んで差し出した。銀行員――二十七、八の、|紺《こん》のスーツの|似《に》|合《あ》う青年だった――は、そのメモをチラリと見て、
「これでは引出しはできませんよ」
と、その用紙にボールペンを走らせて、朋子へ返してよこした。
「あら、そうですか。失礼しました」
朋子はメモと通帳を受け取って、カウンターを|離《はな》れた。
昼休みの銀行は、近くのオフィスのOLやサラリーマンで|混《こ》み|合《あ》っている。朋子も、|事《じ》|務《む》|服《ふく》のままで、同じビルの一階に入っているこの銀行へやって来たのである。
|椅《い》|子《す》は|一《いっ》|杯《ぱい》だった。朋子は、伝票類の|並《なら》んだ台の所へ行ってメモを開いた。
朋子の字で、〈今夜は出られそう?〉とあり、そのそばに、〈七時に、いつもの店で〉という走り書きがあった。
あの|窓《まど》|口《ぐち》の銀行員が、|杉《すぎ》|岡《おか》である。杉岡|友《とも》|也《や》は、朋子の父の口ききでM銀行に入り、今はこの支店へ回って来ていた。
ちょうど、朋子の|勤《つと》め|先《さき》と同じビル、というのは、二人を|一《いっ》|緒《しょ》にさせようという父の工作ではなかったか、と朋子は思っているのだが、それはともかく、朋子と杉岡が|一応将来結婚《いちおうしょうらいけっこん》することになっているのは事実だった。
「銀行員だけはいや」
と言い続けて来た朋子だが、杉岡は|幹《かん》|部《ぶ》|候《こう》|補《ほ》|生《せい》のエリートでありながら、|暖《あたた》かいところのある|好《こう》|青《せい》|年《ねん》で、|年《ねん》|齢《れい》|的《てき》にもちょうどよく、一緒に|腕《うで》を組んで歩いていればバランスのとれたハンサムな|男《だん》|性《せい》でもあるとなれば、|拒《こば》み|続《つづ》ける|根《こん》|拠《きょ》もないわけである。
|夢中《むちゅう》になる、というほど|恋《こい》しているわけでもないが、結婚したいと思うに|充分《じゅうぶん》な程度には、朋子としても好意を|抱《いだ》いていた。
朋子は銀行を出ると、腕時計を見た。まだ休みは二十分ある。コーヒーでも飲んで行こうか。
地下へ|降《お》りて行くと、そば屋や|中華《ちゅうか》などの食堂、|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》があるのだが、そこへ入ると必ず会社の|同僚《どうりょう》に会うので気が重い。同僚ならまだしも、上役が|隣《となり》の席にでもいたら、少しも休みにはならない。
表に出て、隣のビルの一階のカフェテラスに行こう、と決めた。|事《じ》|務《む》|服《ふく》のポケットの|財《さい》|布《ふ》を確かめ、ビルを出ようとして、思いがけない顔と出くわした。
「|美《み》|幸《ゆき》! どうしたの?」
妹の美幸が、セーターにジーパンスタイルで、やって来たのだった。
「どこかへ行くの?」
「お茶飲みによ。来るなら電話ぐらいしなさい。|行《い》き|違《ちが》いじゃないの、もう一歩で」
「近くまで来たからよ」
と美幸は言った。
体だけは朋子より大きい。発育がいい、というのか、朋子よりずっと女っぽい体つきをしている。そのくせ、|甘《あま》えん|坊《ぼう》の顔で、高校生ぐらいにいつも見られてはくさっているのだった。
朋子は、美幸が何をしに来たのか、見当がついていた。近くまで来たついで、などと言って、大学も下宿も、およそ見当外れの所にあるのだ。ちゃんと目的があって姉に会いに来たことはすぐに分る。それも、いささか言いにくい目的があって。
「――いくら|欲《ほ》しいの」
席に落ち着いてコーヒーを注文すると、朋子は|訊《き》いた。
「うーん、分っちゃうのかなあ」
美幸はちょっと照れたようにうつむいて、上目づかいに朋子を見た。
「いつものことだもの。分んなきゃどうかしてるわよ」
朋子は|苦《にが》|笑《わら》いして言った。「だめよ、むだ使いしちゃ」
「パーティやったもんだから、すっからかんになっちゃったの。ごめん、二|枚《まい》|貸《か》して」
「貸して、って言ったって、返さないんだから」
小言を言いながら、朋子は|財《さい》|布《ふ》を出して、一万円札を二枚|渡《わた》した。「もう、次の仕送りまで|絶《ぜっ》|対《たい》にあげないわよ」
「分ってる。|感《かん》|謝《しゃ》してます、お姉さま」
おどけた調子で言って、さっさとバッグへ入れると、「杉岡さんはお元気?」
「ごまかさないで」
と、朋子はつい|笑《わら》い出してしまった。「――今日は学校行かないの?」
「午後からなの。午前中|休講《きゅうこう》だったから」
「いいわね学生は」
「あら、試験がないだけいいじゃない、お|勤《つと》めの人って」
「あなたも勤めてみれば分るわよ」
「お母さん、どう?」
「そうそう、たまには電話かけてあげなさいよ」
「何やかやと|忙《いそが》しいんだもの」
「電話かけるのに三十分もかからないんだから」
「具合、悪いの?」
「そうでもないみたい。でもお母さん、何も言わない人だから……」
「そうね。――じゃ、今夜でもかけるわ」
「たまには家で夕ご飯食べたら? 今夜は|私遅《わたしおそ》くなるから、行ったら喜ぶわよ」
「今夜かあ……。|約《やく》|束《そく》しちゃってるんだもの……」
無理を言っても仕方ない、と朋子は思った。|若《わか》い人にはそれなりの|義《ぎ》|理《り》や付き合いがあるのだ。
美幸が、ふと思い出したように、
「お父さん、病気でもしてるの?」
と言った。
「お父さんが? いいえ」
朋子が|戸《と》|惑《まど》って、「どうしてそんなこと|訊《き》くの?」
「お父さんから借金しようかと思ってさ。電話したのよ、十時|頃《ごろ》。そしたら、お休みだって――」
「変ね、出て行ったけど。じゃ、きっと外出してるのを、向うが|間《ま》|違《ちが》えたんじゃない?」
「そうか。お父さん、|滅《めっ》|多《た》に休まないじゃない。ちょっと心配になったの」
「いやに|殊勝《しゅしょう》なこと言うじゃないの」
と、朋子は冷やかすように言った。
美幸は美人という点では姉よりも上である。|甘《あま》えん|坊《ぼう》くささがぬけ切らないで、何かというと朋子に|頼《たよ》って来るが、|素《す》|直《なお》で、のびのびと育っているところが、|憎《にく》めない。|誰《だれ》からも|好《す》かれる、|得《とく》な|性《せい》|格《かく》だった。
「杉岡さんとはいつ式を|挙《あ》げるの?」
と、美幸が言った。
「まだ分らないわ。|結《けっ》|婚《こん》するって正式に話をしたわけじゃなし……」
「もうしてもいいんじゃないの?」
「早く|片《かた》|付《づ》けたいの?」
「お姉さんいなくなったら、あの家を乗っ取るんだ」
朋子は|笑《わら》って、
「お|好《す》きなように。どうせ銀行員は方々、転々とするんだから」
「本当に、当分まだしないつもり?」
「結婚?――そうね、そう|差《さ》し|迫《せま》ってもいないしね。まあ、|子《こ》|供《ども》生むのにはここ二、三年の内がいいんだろうけど……」
「|高年齢出産《こうねんれいしゅっさん》は大変だってよ」
「今はそんなこともないでしょう。――あ、そろそろ時間だ。もう少しいる?」
「うん。まだ|早《はや》|過《す》ぎるから」
「じゃ、お金|払《はら》っとくから」
朋子は立ち上って、伝票を取ると、「お母さんに電話してね」
と念を|押《お》した。
店を出ると、通りから、ガラス戸|越《ご》しに手を|振《ふ》る美幸へ|肯《うなず》いて見せ、急いで会社のビルへと|戻《もど》った。もう一時を二、三分回っている。
ビルの七階が、朋子の|職場《しょくば》である。銀行の支店長の|娘《むすめ》ということもあってか、|経《けい》|理《り》|事《じ》|務《む》を|担《たん》|当《とう》させられている。
入社当時は、経理の|知《ち》|識《しき》|皆《かい》|無《む》で、方々の|講習《こうしゅう》や教室に通って、やっと一人前になった。
今はもう|中堅《ちゅうけん》に近い立場である。ちょっと|早《はや》|過《す》ぎるとも思うが、やはり父のコネで入社したせいか、多少|優《ゆう》|遇《ぐう》されているというところがあるのは|否《ひ》|定《てい》できない。
しかし、そのせいで、とやかく言われたことはなかった。
「ああ、朋子さん」
|隣《となり》の席の同期生、|足《あ》|立《だち》|広《ひろ》|子《こ》が声をかけて来た。「電話があったわよ。つい今しがた」
「|誰《だれ》から?」
「お父さん」
「父から?」
「またかけるって」
父から電話。――何事だろう? 美幸の話を耳にした後だったので、ちょっと|奇妙《きみょう》な気持にさせられた。
「すてきな声してるわね、あなたのお父さんって」
と、足立広子が言い出した。
「まあ、そうかしら? きっと喜ぶわ。TV電話でなくって幸いね」
足立広子は朋子の言葉に、声を立てて|笑《わら》った。――|同僚《どうりょう》としては|至《いた》って気楽な、明るい|性《せい》|格《かく》で、朋子が杉岡と|結《けっ》|婚《こん》することになっていながら、なかなか|踏《ふ》み|切《き》れないでいるのとは対照的に、冬にスキー場で知り合った|男《だん》|性《せい》と、アッという間に|一《いっ》|緒《しょ》になってしまった。|従《したが》って、足立というのは、新しい|姓《せい》なのである。
伝票の整理を始めて、十五分ほどして、電話が鳴った。
「朋子か」
父の声だった。
「お父さん、何の用だったの?」
「銀行へかけて来たんじゃないのか、お前の方から」
「|私《わたし》? かけないわ。――ああ、きっと美幸よ。さっき会ったとき、そう言ってたもの」
「そうか。|娘《むすめ》さんから電話があったと聞いたものだから、てっきりお前かと思った。美幸が何の用だ?」
「どうってことないの。お|小《こ》|遣《づか》いをせびりたくなったんでしょう」
「そんなことか。で、何か言ってたか」
「私が少しあげたわ。お母さんには|内《ない》|緒《しょ》にね」
「分ってるさ。それじゃ――」
「ね、待って。お父さん、今日銀行を休んでるの? さっき美幸はそう言われたって……」
「今着いたところさ。ずっと表を回っていたから、休んでいると思われたんだろう」
「そう。――それならいいけど」
「美幸の|奴《やつ》に会ったのなら、少しは家へ|寄《よ》りつけと――」
「言っておいたわ。|効《き》き|目《め》があったかどうかはともかく、ね」
朋子は電話を切って、しばらくは仕事に|専《せん》|念《ねん》していたが、その内に、今の電話のことが気にかかり出して、どうにも落ち着かなくなって来た。
|別《べつ》に電話の中味そのものはどうというものではない。しかし、考えてみると、父が電話をかけて来るということ自体、|珍《めずら》しいことである。
村山は仕事|一《ひと》|筋《すじ》にここまでやって来た、と言っていい人間だ。もちろん、世代、ということもあるのだろうが、家族が|職場《しょくば》へ電話して来るのを、|快《こころよ》くは思っていない。
それを――美幸は|特《とく》に急用だなどとは言わないだろうが――いちいち向うからかけ直して来るというのは、どうもおかしい。
念のため、というよりは、電話をかけて来られるのがいやで、自分からかけて来たのではないかという気がした。
そうだ、と朋子は思った。――今の父の電話がどことなくおかしいように思えたのは、ほとんど周囲に音や声が聞こえなかったからだ。銀行はいつも店の中にBGMを流している。何かの用で父から電話があって出たときには、いつもその音楽が聞こえているのだ。だが、今の電話には、音楽だけでなく、店内のざわめきさえ聞こえなかった……。
別に、気にするほどのことではないのだ、と自分に言い聞かせてみるのだが、一向に仕事に身が入らない。
「――ちょっと、電話かけて来るわ」
と、朋子は広子へ言って立ち上った。
「|彼《かれ》|氏《し》?」
杉岡のことを多少は知っている広子が、冷やかすように言った。朋子は|曖《あい》|昧《まい》に|笑《わら》って見せて、|経《けい》|理《り》|部《ぶ》の部屋を出た。
ポケットの|小《こ》|銭《ぜに》を|確《たし》かめて、エレベーターで一階に|降《お》りる。赤電話で、父の支店へかけた。――|馬《ば》|鹿《か》げているとは思うが、どうにも気になって仕方ないのだ。
「――あ、もしもし。支店長をお願いします。――え?」
「本日は|休暇《きゅうか》を取っておりますが、どちら様でいらっしゃいますか?」
「それでしたら|結《けっ》|構《こう》です」
「何かご伝言がございましたら|承《うけたまわ》ります」
「いえ、またかけ直します」
朋子は受話器を置いた。――余分に入れた十円玉が|戻《もど》ったのにも気付かなかった。
2
「――何だか考え|込《こ》んでるね」
夕食のテーブルで、|杉《すぎ》|岡《おか》が言った。
「ごめんなさい。ちょっと……」
と|朋《とも》|子《こ》はワインのグラスをあけた。
「何かあったの、会社で」
朋子はちょっと|迷《まよ》ってから言った。
「父のことが気になってるの」
「お父さん? |結《けっ》|婚《こん》に反対なのかい?」
「|違《ちが》うの。そんなことじゃないのよ」
と朋子は首を|振《ふ》った。
「話してみてくれよ」
「うん……。何でもないことだ、と思うんだけど」
朋子は、父が銀行へ行くと言って、|実《じっ》|際《さい》には休んでいたことを話した。
「――こんなこと初めてだわ。何だか気になって」
杉岡はちょっと|複《ふく》|雑《ざつ》な|表情《ひょうじょう》で、
「つまり、お父さんが何かしら……|秘《ひ》|密《みつ》を持ってるんじゃないか、って気にしてるんだね?」
秘密を持っている、か。いかにも杉岡らしい言い回しだ。
「はっきり言えば――|浮《うわ》|気《き》とか、ね」
「うーん、|難《むずか》しいなあ、そういう問題は」
「父はあの通りの|堅《かた》|物《ぶつ》でしょう。もし、そんなことになっているとしたら……」
「そういう人は|却《かえ》って|危《あぶ》ない、と言うね」
「|私《わたし》もそう思うの」
杉岡はタバコに火をつけて、ゆっくり|煙《けむり》を|吐《は》き出した。何か言おうとするときの|時《じ》|間《かん》|稼《かせ》ぎである。
「どうすればいいと思う?」
と朋子は|訊《き》いた。
「そうだなあ。ともかく、まず|想《そう》|像《ぞう》してるだけじゃ仕方ないよ。はっきりした事実をつかまなくちゃ」
「そうね」
「分ってみれば、どうってことはないのかもしれない。|笑《わら》い|話《ばなし》で|済《す》むかもしれないしさ」
そうなってくれれば、と朋子は思った。しかし、一種の予感のようなものが、朋子にはあった
父がわざわざ朋子の会社へ電話して来たのは、おそらく後ろめたさがあったからではないのか。外から銀行へ電話を入れ、|娘《むすめ》から電話がかかったと知って、あわててしまったのだろう。
「もし――本当に|浮《うわ》|気《き》していることが分ったら――」
「あんまり|騒《さわ》がないことだよ」
と杉岡は言った。「男は時々そんな虫が起きることがあるんだ。君のお父さんは|責《せき》|任《にん》|感《かん》の強い方だからね。|無《む》|茶《ちゃ》はしないさ」
「そうね」
ちょっと男の方に都合のいい|議《ぎ》|論《ろん》とも聞こえたが、|確《たし》かに|無《む》|視《し》しておく――あるいは、それとなく、|釘《くぎ》を|刺《さ》しておくぐらいが、最も|利《り》|口《こう》な方法かもしれない、と思った。
だが、母にとっては、それでもいいだろうか? 体の弱い母に|打《だ》|撃《げき》になるのではないか。それが心配だった。
「何なら、|僕《ぼく》がお父さんと話してみようか?」
と杉岡が言った。「男同士の方が、ざっくばらんな話ができるかもしれないよ」
「そうね。――そのときはお願いするかも……」
「いつでも言ってくれ」
朋子は、杉岡へ|微《ほほ》|笑《え》みかけた。いつもは|優《やさ》しい代り、ちょっと|頼《たよ》りなさを感じさせる杉岡だが、今日はずいぶん頼もしく見えた。
「――今夜はどうする?」
と杉岡が言った。
夕食の後、ちょっとしたスナックへ回るのが、いつものコースだった。そこは銀行員で、おかしいくらい、いつも決まっているのだ。
「今夜は……帰るわ。昨日も友達と飲んじゃって|今《け》|朝《さ》はちょっと残っちゃったし」
「そうか。じゃ、送ろう」
「早いから|大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「いや、これは決まりだからね」
朋子はちょっと|笑《わら》った。
――|確《たし》かに、そう|遅《おそ》い時間でなくとも、|住宅地《じゅうたくち》は夜が早い。道は|割《わり》|合《あい》と|寂《さび》しいのだった。
「そろそろ|僕《ぼく》らのことも決めておこうよ」
と杉岡が歩きながら言った。
「そうね。――妹にも|催《さい》|促《そく》されちゃった」
「|美《み》|幸《ゆき》さんに? じゃ、|彼女《かのじょ》も|誰《だれ》か相手がいるんじゃないのかな」
「まさか。――|子《こ》|供《ども》だもの、あの子は」
「そう思ってるのは親と姉さんだけかもしれないよ」
「おどかさないで」
と朋子は|苦笑《くしょう》した。「まあどうせ卒業したって|就職《しゅうしょく》する気はないと思うけど、あの子は――」
「じゃ、今の内に相手を見付けておくのもいいんじゃないのか」
「そうね」
朋子は何気なく答えた。今のところ、父のことの方が気がかりで、美幸のことにまで頭が回らなかった……。
家の前へ来て、朋子は言った。
「上って行ってほしいけど……」
「いいよ。今日は|遠《えん》|慮《りょ》しよう」
「そう? ごめんなさい」
「ともかく何か分ったら――」
杉岡がそう言いかけたとき、|玄《げん》|関《かん》のドアが急に開いた。
「――お父さん」
村山が、|頬《ほお》を|紅潮《こうちょう》させて出て来た。朋子と杉岡の|姿《すがた》を見ると、ピタリと足を止めた。
「どうしたの?」
「母さんに聞け」
父の声は|上《うわ》ずっていた。「杉岡君、|済《す》まんが失礼する」
「はあ」
「お父さん、どこに行くの」
「今は話している|暇《ひま》がない」
村山は朋子と目を合わせないようにしているらしかった。足早に歩いて行く。
「お父さん!」
朋子は、父の後ろ姿へ|呼《よ》びかけた。父は|逃《に》げるように、足を早めた。
「今はそっとしておいた方がいいよ」
杉岡が朋子を止めた。
「ええ……。母の方が心配だわ」
「|一《いっ》|緒《しょ》にいようか?」
「――お願い。|玄《げん》|関《かん》まで来て」
「分った」
朋子は開けっ放しの玄関へ|飛《と》び|込《こ》んで行った。
「お母さん!」
|靴《くつ》を|脱《ぬ》ぎ|捨《す》てるのももどかしく、|居《い》|間《ま》へ入って行く。母がソファに身じろぎもせず|座《すわ》っていた。
「お母さん、どうしたの? 大丈夫?」
久代は、ゆっくりと朋子の方に顔を向けた。
「お帰り。杉岡さんは一緒じゃないの?」
ごく当り前の口調が、|却《かえ》って不安をかき立てた。
「|玄《げん》|関《かん》に――」
「上っていただきなさい。失礼じゃないの」
と、久代は立ち上った。
少し青ざめてはいるが、平静を保っていた。
「お父さんはどこに行ったの?」
と朋子は|訊《き》いた。
台所の方へ歩きかけた久代は足を止め、
「女の所だよ」
と、静かに言った。「前から分ってはいたんだけどね」
朋子は、何とも言う言葉がなかった。久代は玄関の方へ出て行った。
「杉岡さん、どうぞお上りになって――」
と、いつに変らぬ愛想の良い声が聞こえて来る。
朋子は自分でも分らない内に、ソファに|座《すわ》り|込《こ》んでいた。――父に女がいた。
それももちろんショックだったが、それ以上に、母がそのことを知っていたこと、そして自分がそれに気付かないでいたことの方が、朋子にはショックだった。
「さあさあ、どうぞ入って下さいね」
と、母が杉岡を案内して来る。「今、お茶を|淹《い》れます」
「どうぞお|構《かま》いなく。すぐに失礼しますから……」
「おかけになって。朋子、そんな所で何してるの」
ちょっと|咎《とが》め|立《だ》てするように言って、久代は台所の方へ|姿《すがた》を消した。
杉岡が朋子の方へ、問いかけるような目を向けた。
「やっぱり心配してた通り」
と、朋子は低い声で言った。
「お母さんが、それに気付かれたんだね?」
「前から知っていたんですって」
「村山さんがねえ。――信じられないよ、全く」
「今はその話、しないでね」
母が|戻《もど》って来そうな気配に、朋子はあわてて言った。
「うん、もちろん」
杉岡が|肯《うなず》く。すぐに久代が|盆《ぼん》を手にやって来た。
「びっくりさせちゃってごめんなさいね」
と、お茶を注ぎながら、久代が言い出す。
「いいえ」
杉岡としても何とも言いようがないのだろう。
「もう三か月以上になるかしらね、主人に女が出来て……」
久代は、まるで|他人《ひと》|事《ごと》のようにしゃべっている。「大体、|隠《かく》したり|嘘《うそ》ついたりするのが|下手《へた》な人だもの。すぐに分りましたよ」
「|私《わたし》、何も気が付かなかった」
と、朋子が言った。
「そりゃ朋子は|子《こ》|供《ども》だから。私は|妻《つま》ですからね。すぐに分るわよ」
杉岡が、ちょっとおずおずとした様子で、
「|僕《ぼく》に何かできることがあれば、おっしゃって下さい」
と言った。
「ご親切にどうも。でも、あの人は放っておけば帰って来ると思いますよ」
「|責《せき》|任《にん》|感《かん》の強い方ですからね。 きっと……」
「どういう女だか分っているの?」
と朋子は|訊《き》いた。
「さあ、知らないわね。いちいち調べて歩くのも、何だか|惨《みじ》めでしょう」
「――そっとしておくのが一番いいことかもしれませんね」
と、杉岡は当り|障《さわ》りのない口調で言った。「じゃ、僕はこれで失礼します」
「あら、そうですか。――何だかごめんなさいね、|妙《みょう》なことになって……」
「いいえ、とんでもありません」
朋子はホッとして、
「そこまで送って来るわ」
と言った。
「そうしておくれ。杉岡さん、またいらして下さいね」
朋子は、やはり杉岡に、あまり家庭内の問題をさらけ出したくはなかった。いくら|結《けっ》|婚《こん》するつもりの相手とはいえ、今はまだ他人なのだ。
「――もう、ここでいいよ」
杉岡は足を止めて言った。「ここならお|宅《たく》の|玄《げん》|関《かん》が見えてるからね。これ以上行くと、また僕が送って行かなきゃならなくなっちゃう」
「ええ、それじゃ。ここで……」
と、朋子は言った。「――このことは、あなたのお|家《うち》の方には|黙《だま》っていてね」
「もちろんだよ」
杉岡はちょっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。「そう|深《しん》|刻《こく》そうな顔をしないで。大したことじゃないだろうから」
「ええ。|私《わたし》が心配なのは……母のことだけなの」
「しっかりしていらっしゃるじゃないか」
そう見えるのは、客の前で、気が|張《は》っているからなのだ、と朋子には分っていたが、そこまで杉岡に話してみたところでどうにもならない。
「じゃ、おやすみなさい」
と朋子は言った。
「じゃあ……」
杉岡が、|素《す》|早《ばや》く、朋子の|頬《ほお》に|唇《くちびる》を|触《ふ》れた。
もちろん、朋子は杉岡と深い|仲《なか》になっているわけではない。こうしておやすみのキスぐらいするのは、|習慣《しゅうかん》になっているのだが。
今夜は、もちろん父の事が気になって、朋子は|胸《むね》をときめかせる|余《よ》|裕《ゆう》もなかった。
「また明日、電話するよ」
「ええ」
朋子は|肯《うなず》いて、やっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
家へ|戻《もど》って、|居《い》|間《ま》へ入ってみると、母はソファに身を|沈《しず》めて、目を|閉《と》じていた。
「お母さん、どうしたの?」
朋子は不安になって声をかけた。
「ああ、戻ったの」
久代は目を開けて微笑んだ。「――悪かったね、杉岡さんには」
「いいのよ、そんなこと。|大丈夫《だいじょうぶ》?」
「ちょっと|疲《つか》れただけよ」
「――お父さんもひどいわ」
朋子は、やっと今になって、そのショックが|肌《はだ》に感じられて来た。
「|真《ま》|面《じ》|目《め》な人だったものね、お父さんは」
と、久代は言った。「三十年この方、真面目に仕事|一《ひと》|筋《すじ》に|打《う》ち|込《こ》んで来て……。遊び一つしなかったからねえ。 一度ぐらいは仕方ないのかもしれないよ」
「お母さんまでそんなこと言っちゃ仕方ないじゃないの」
朋子は|苦《にが》|笑《わら》いした。――育ちの良い母には、そんなことで|取《と》り|乱《みだ》すのはプライドが|許《ゆる》さない、というところがあるのだ。
しかし、分らない。父が――あの、|優《やさ》しくて|穏《おだ》やかな父が、こんなことをして、家を出て行ってしまうとは。
「お父さん、今夜は――」
「今夜は帰らないだろうね、きっと」
と言って、久代は立ち上った。「さあ、お|風《ふ》|呂《ろ》の火を|点《つ》けなきゃ」
|居《い》|間《ま》を出て行こうとして、久代は|振《ふ》り|返《かえ》った。
「このこと、美幸には言っちゃいけないよ」
と言って、歩いて行った。
朋子は一人、居間に残って、しばらく動けなかった。
「――心配事?」
|同僚《どうりょう》の|足《あ》|立《だち》|広《ひろ》|子《こ》が、気にして声をかけて来た。朋子は、ちょっとの間、それに気付かなかった。いや、聞こえていたのに、|理《り》|解《かい》できなかったのである。
「――あ、ごめんなさい。何て言ったの?」
「どうしたのよ。様子がおかしいわ」
「ちょっと、ね……」
朋子は|曖《あい》|昧《まい》に|呟《つぶや》いて、仕事に|戻《もど》った。
伝票の計算などは|間《ま》|違《ちが》いなく|済《す》ませている。|習慣《しゅうかん》で、考えなくても、指の方が|正《せい》|確《かく》に動いてくれるのだ。
あまり|眠《ねむ》っていないというのも事実である。母は、帰って来ないと言ったが、万一――と、物音が聞こえて来る|度《たび》に、耳を|澄《す》ませていたのだ。
しかし、父は結局、帰って来なかった。
母は早々に|床《とこ》に入ってしまったようだったが、やはりあまり眠れなかったらしいのは、朝の、|充血《じゅうけつ》した|眼《め》で分った。
今日、父は銀行へ行っているのだろうか? よほど支店へ電話してみようと思ったのだが、何かが朋子を|押《お》し|止《とど》めた。――一体どうなってしまうのだろう?
これまで、平和で、|揺《ゆ》るぎようのない、|確《たし》かなものだった〈家庭〉が、たった一夜で、熱い|紅《こう》|茶《ちゃ》に|浸《ひた》された|角《かく》|砂《ざ》|糖《とう》のように、|崩《くず》れて行く。それを目の前にしながら、朋子にはどうすることもできないのだ。
もちろん、どの家庭も何かしら問題をかかえているものであり、自分の所ばかりが例外であるとは、考えていない。しかし、まさかこうも|突《とつ》|然《ぜん》に、これほどの|事《じ》|態《たい》がやって来るとは、想像もつかなかったのだ。
だが、事態は、|遥《はる》か先へと進もうとしていた……。
「――電話よ」
と、足立広子が言った。
朋子は、電話が鳴ったのにも気付かなかった。広子と二人で一台の電話を使っていて、朋子の方が動作が|素《す》|早《ばや》いので、電話が鳴ったときには、朋子が取るのが、いわば|慣《かん》|例《れい》になっていたのだが。
「ごめんなさい」
「|彼《かれ》|氏《し》から」
広子の手から受話器を受け取ると、本当に杉岡からだった。というのも、広子は時々朋子をからかって、仕事の電話なのに、
「お友達からよ」
などと|澄《す》まして言うことがあるからだ。
「杉岡さん、昨日はどうも――」
と言いかけると、
「お父さん、どうした?」
と|訊《き》いてきた。
「分らないわ。帰って来なかったの、ゆうべは」
「そうか……」
杉岡は、ちょっとためらってから、「今、支店へ電話してみたけど、休みだと言われたんだ」
「そう……」
「|連《れん》|絡《らく》、取れないの?」
「|私《わたし》は全然知らないの。母もたぶん……分らないと思うわ」
「それじゃ仕方ないなあ」
と杉岡はため息をついた。
「何かまずいことでも?」
「いや――そういうわけじゃないんだけど――」
杉岡の言葉はやや歯切れが悪かったが、朋子としても、そこまで気にしている|余《よ》|裕《ゆう》がなかった。
「ともかく、もし|連《れん》|絡《らく》が取れたら、|僕《ぼく》に教えてくれないか」
「ええ、分かったわ」
と朋子は言った。
「お母さんの具合は?」
「何とか|大丈夫《だいじょうぶ》。今のところは」
「それならいいけど、また電話するよ」
「ええ」
電話を切ってから、朋子は、なぜ杉岡がわざわざ電話して来たのだろう、と不思議に思った。もちろん、単純に朋子の家のことを心配しただけかもしれないが。
家に電話するのも、何だか不安だった。帰ってみれば、もう父がいて、いつもの通りにTVを見ながら、|将棋《しょうぎ》の本をめくっているのではないか、という気がした。今、電話などかければ、その|幻《まぼろし》がシャボン玉のようにはじけて消えてしまうのではないか。なぜか分らないが、朋子にはそんな気がしたのである。
杉岡から二度目の電話があったのは、午後四時になろうとするところだった。
「どうも大変なことになりそうだよ」
杉岡の声はいつになく|真《しん》|剣《けん》で、|切《せっ》|迫《ぱく》していた。
「どうしたの? 父が何か――」
「お父さんは今夜の|寝台特急《しんだいとっきゅう》の|切《きっ》|符《ぷ》を予約しているらしい」
「寝台?――でも――」
「二|枚《まい》だ。もしかして、その|女《じょ》|性《せい》と二人で|姿《すがた》を消すつもりだったら……」
「まさか! 父はそんなことする人じゃないわ」
思わず大きな声になって、|隣《となり》の広子が朋子の方を見た。
「ともかく駅へ行った方がいいんじゃないかな」
「そうするわ、ありがとう」
「一七 ・ 〇〇発の〈みずほ〉だ。分るね」
「メモしたわ。すぐに行ってみる」
朋子は、|一《いっ》|旦《たん》電話を切ると、すぐに母へと電話をかけた。「今から東京駅へ行くから」
「|私《わたし》も行くよ」
と久代が言った。
「でも|遅《おそ》くなるわ」
「車なら、三十分ぐらいでそっちへ行けるでしょう」
「そうね。――どうせここを通るし。分ったわ。じゃビルの前で待ってるから……」
「今すぐに出るからね」
母の、こんなに|張《は》りつめた声を聞くのは初めてだ、と朋子は思った。
朋子は|早退届《そうたいとどけ》を書いた。ボールペンを持つ手が|震《ふる》えた。父が女と二人でどこかへ行こうとしている。――そんなことがあるはずはない!
「何があったの?」
と、広子が心配そうに|訊《き》いた。
最初は|好《こう》|奇《き》|心《しん》だったものが、今は本当に心配そうな|表情《ひょうじょう》に変っている。よほどのことが起きたと分っているのだろう。
「家の方でごたごたがあって……。早退するわ」
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ、後は」
「お願い」
届を出すと、課長はけげんな顔で、
「何か――」
と訊きかけたが、朋子は、
「よろしくお願いします」
と頭を下げて、さっさと|戻《もど》って来てしまった。説明する気にはなれない。
|仕《し》|度《たく》をして、ビルの一階へ出る。
表の通りに、車がつながっていた。――これではだめだ。朋子は急いで|自《じ》|宅《たく》へ電話したが、もう久代は出た後らしかった。
電車で来いと言うべきだった。ビルの前で、じりじりしながら、朋子は母を待ち続けた……。
3
雨になった。
よく晴れていた前の一週間が、まるでどこか|別《べつ》の世界だったかのように、前の日から、雨はいつやむともなく|降《ふ》り続けている。
|朋《とも》|子《こ》は、ヒーターのスイッチを入れた。晴れれば|汗《あせ》ばむほどに|暖《あたた》かい日もあるのだが、こうして|灰《はい》|色《いろ》の海に|浸《ひた》ったような日には、底冷えのする寒さになる。
|晩秋《ばんしゅう》だった。
ヒーターが、チリン、チリンと|風《ふう》|鈴《りん》か何かのような音をたてて、|生《なま》|温《ぬる》い風が|吹《ふ》き出して来た。カーテンを引いたままの|居《い》|間《ま》は、|薄《うす》|暗《ぐら》くて、いっそう|陰《いん》|気《き》だった。
昼間だが、こんな日は|構《かま》わないだろう。朋子は明りを|点《つ》けた。
明るくなると、|陰《いん》|気《き》さの代りに、|虚《むな》しい|寂《さび》しさが居間に満ちる。どちらも寒々とした日には|似《に》|合《あ》っているかもしれない。
朋子はぼんやりとソファに|座《すわ》っていた。以前は、どちらかといえば、てきぱきとよく動いたのだが、このところ、こうして何もせずに時間を|過《す》ごすことが多くなった。
父がいなくなって、二週間たった。父の|消息《しょうそく》は全く知れなかった。杉岡が調べてくれて、父が女と二人で、|大《おお》|阪《さか》で|特急《とっきゅう》を|降《お》りたことは分ったのだが、その先は一向に知れない。
大阪の|群集《ぐんしゅう》に|紛《まぎ》れ|込《こ》んでしまったのか、それとも、そこからまたどこか地方へと、人目を|避《さ》けて入って行ったのか。
父のいない家が、こんなにも暗く見えるものかと、朋子は思った。どこにいても、母と二人でいても、この家が自分の家だという実感が、ないのである。何か、他人の家に上って、早く帰らなければならない、という気にさせられてしまう。
もともとが|無《む》|口《くち》で、あまり目立たない父であったが、それでいて、こうも重い|存《そん》|在《ざい》だったのか、と朋子は思った。
|玄《げん》|関《かん》の方で物音がした。
「お母さん?」
と|訊《き》きながら、出て行くと、妹の|美《み》|幸《ゆき》である。
相変らず、ジーンズにジャンパーというスタイルで、
「お姉さん、どうしたの? 会社でしょ、今日は」
と|靴《くつ》を脱ぐ。「ああ、寒い」
「休んだのよ。あなたこそ、学校は?」
「いいの、少しぐらいさぼっても。お母さん、出かけたの?」
「うん。お昼食べた? 何か食べるのなら――」
「今、軽く食べて来たからいい」
美幸は|居《い》|間《ま》へ入ると、ソファに|寝《ね》そべった。
「何よ、|怠《たい》|惰《だ》な|格《かっ》|好《こう》ね」
と、朋子はつい|笑《わら》った。
「どうしてカーテン|閉《し》めとくの? まだ昼なのに」
「この天気じゃ、開けといたって同じよ。じゃ、コーヒーでも|淹《い》れようか」
美幸がちょっとためらって、
「|普《ふ》|通《つう》のお茶でいい」
と言った。
「あら、|好《この》みが変ったの?」
「今、ちょっとお|腹《なか》の調子が悪くって」
「冷えたんじゃないの? じゃ、お茶淹れて来る」
台所へ行って、やかんをガスにかける。――一番|訊《き》きたいことを、美幸は訊かない。朋子の方からも話そうとはしない。
「お|茶《ちゃ》|菓《が》|子《し》がないけどね……」
お|盆《ぼん》に、お茶とあられをのせて|戻《もど》ってみると、美幸はTVをじっと見ていた。いわゆるワイドショーという番組だ。
「お茶、飲んだら?」
「うん、|冷《さ》めてから」
「そうか。|猫《ねこ》|舌《じた》だものね」
熱い茶が|好《す》きな朋子は、そっとお茶をすすりながら、「学校、どう?」
と言った。
「どう、って……|別《べつ》に。何か意味のある|質《しつ》|問《もん》なの?」
「そうじゃないわ。|訊《き》いてみただけ」
美幸が、|珍《めずら》しく少し|苛《いら》|立《だ》っている。朋子は急いで首を|振《ふ》った。
それきり、二人はしばらく|黙《だま》り|込《こ》んだ。
「これに出ようか」
と美幸が、やっとお茶を一口飲んで、言った。
「え?」
「これ、ほら」
と、TVの方を|顎《あご》で指して見せ、「|蒸発《じょうはつ》した|妻《つま》に|呼《よ》びかける|夫《おっと》の|姿《すがた》。――|哀《あわ》れねえ。見て、|泣《な》いてるわよ」
「よしなさいよ、そんな番組」
「いいじゃない。他人も不幸だって分ると|慰《なぐさ》められるわ」
「|趣《しゅ》|味《み》悪いわよ」
美幸は、それでもTVを消そうとはしなかった。そして、TVの、そのコーナーが終ると、
「お母さん、どこに行ったの?」
と|訊《き》いた。
「銀行よ。――|田《た》|沢《ざわ》さんから呼ばれて」
「田沢さん?」
「|副《ふく》|頭《とう》|取《どり》じゃないの。会ったことあるでしょ、あなたも?」
「|憶《おぼ》えてないわ。ともかく|偉《えら》い人なのね、銀行の?」
「そうよ、もちろん」
「お母さんに何の話?」
「さあ、分らないわ。もう帰って来ると思うんだけど。それがあるんで、今日は家にいてくれ、って言われたのよ」
「それで会社休んだの?――お父さん、|連《れん》|絡《らく》して来た?」
朋子は|黙《だま》って首を|振《ふ》った。
「そうね。あれば言うよね、そっちから」
美幸はそう言って、立って行くと、TVを消した。
「美幸、何か用で来たの?」
「え?――ああ、決まってるじゃない。月給日[#「月給日」に傍点]だもの」
「ああ、そうか」
と朋子はちょっと|笑《わら》った。
「お父さん、何という女と|逃《に》げたの?」
ソファに|戻《もど》ると、美幸が言った。「調べたんでしょ?」
「杉岡さんが調べてくれてるわ。でも――分ったところで、お父さんが戻る気がなかったら……」
「一緒に死んだんじゃないだろうね」
美幸の言葉に、朋子は息が止まるほどのショックを受けた。そんなことは考えてもみなかったのだ。父と女が|心中《しんじゅう》……。
「まさか、そんなこと――」
と言いかけたとき、|玄《げん》|関《かん》のドアが開く音がした。
「帰って来た」
美幸が先に出て行く。「お帰り」
「あら、美幸、来てたの?」
|久《ひさ》|代《よ》は|傘《かさ》を傘立てに入れて、「よく|降《ふ》るし、寒いし……本当にいやね。すっかり冷えちゃったわ」
「|居《い》|間《ま》が|暖《あたた》かいよ。お茶|淹《い》れようか」
「ありがとう。――朋子。お前が|呼《よ》んだの?」
「|違《ちが》うわ。勝手に来たのよ。お|小《こ》|遣《づか》いの日だからって」
「あ、そうだったね。ちょうど良かった。美幸も呼んでやらなきゃと思ってたんだよ」
「田沢さんのお話、何だって?」
「ちょっと待っておくれ。少し暖まってから……」
ソファに身を|沈《しず》めて、久代は目を|閉《と》じた。しっかりしてはいるものの、かなりの|疲《ひ》|労《ろう》が、全身に重くのしかかっているようだった。
美幸が運んで来た熱いお茶を、ゆっくりと飲んで、息を|吐《は》き|出《だ》した。
「やっと生き返ったよ。――表は寒いものね」
「お母さん」
と、美幸が、ちょっとじりじりしている様子で、「何の話だったの?」
とせかした。
「お前たちにはできるだけ苦労をかけたくはないんだけどね……」
久代は、|諦《あきら》めの|微笑《びしょう》らしきものを|浮《う》かべていた。
「何かあったのね」
「お父さんは銀行のお金を|使《つか》い|込《こ》んでいたらしいんだよ」
朋子と美幸は、つい|無《む》|意《い》|識《しき》の内に、顔を見合わせていた。
「お父さんが!――信じられないわ」
朋子は|動《どう》|揺《よう》して声が|震《ふる》えているのが分った。「いくらぐらい?」
「一億円ぐらいだとさ」
久代は、まるでスーパーでの買物の|値《ね》|段《だん》でも言うように、あっさりと言った。
一億……。朋子は、|驚《おどろ》くこともできないでいた。あの父が、|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》な、|至《いた》って気の弱い父が……。
「ともかく、|全《ぜん》|額《がく》はとても無理だとしても……」
と、久代は続けた。「作れるだけのお金は作って返さなきゃならない。そうすれば、|警《けい》|察《さつ》|沙《ざ》|汰《た》にはならないで|済《す》むだろうね」
「|届《とど》けていないのね?」
銀行は何よりも体面を重んじる。|一《いっ》|介《かい》の行員ならともかく、支店長が大金を使い込んだことがニュースになれば、銀行全体の信用にかかわる。
「お父さんは、お金を持って|逃《に》げてるの?」
と、美幸が|訊《き》いた。
「大して持ってないと思うよ」
と、久代は首を|振《ふ》って、「今、まだ調べてる最中だそうだけど、かなり長い期間にわたってるらしいから……。残ってるお金はそうないんじゃないのかね」
「長い期間? じゃ、女とのことも、その間ずっと?」
と朋子は言った。
「そうらしいよ。|私《わたし》は全然気が付かなかったけどね。だめねえ、こんな|女房《にょうぼう》じゃ」
「お母さんったら、|呑《のん》|気《き》なことばっかり言って……」
美幸が久代をにらんで、「私たちはどうなるの?」
と言った。
「それが私も|辛《つら》いんだよ」
と、久代がため息をついた。「ともかく行内の|預《よ》|金《きん》は全部|押《おさ》えられる。それにこの家……」
「家まで?」
と、美幸が目を|見《み》|張《は》った。「そんな……ひどいじゃないの!」
「仕方ないよ」
と久代は静かに言った。「一億円だからね、何しろ。預金とこの家、土地……。でも、ここもまだ完全に自分のものじゃないからね……」
しばらく三人は|沈《ちん》|黙《もく》した。朋子は、これが悪い|夢《ゆめ》であってくれたら、と思った。
家を失う。――それは、まるで|一瞬《いっしゅん》の内に世界がひっくり返ってしまうのにも等しかった。
「お母さん」
と朋子は言った。「預金がゼロになるのは仕方ないけど……何とか残りのお金は|工《く》|面《めん》できないかしら。この家を|担《たん》|保《ぽ》にして、借りられない?」
「そうよ」
と、美幸が言った。「|親《しん》|戚《せき》の人から借りようよ。|叔父《おじ》さんなんか、お金持ってるじゃないの」
「借りて、どうやって返すの?」
と久代は言った。
朋子と美幸は目を|伏《ふ》せた。
「返せるあてもないのに、お金なんか|貸《か》してくれる人はいませんよ」
「でも、叔父さんや京都の叔母さんなら、できたときに返すと言って――」
久代は美幸を|遮《さえぎ》るように、首を|振《ふ》った。
「もう、それは|頼《たの》んでみたの」
「じゃ、お母さん……」
「昨日ね、杉岡さんが電話をくれたのよ」
「杉岡さんが?」
「本当なら教えちゃいけないらしいんだけど、田沢さんに会う前に知っていた方がいいだろうから、といってね。一億円近いお金のことも教えてくれたんだよ」
「それで、|叔父《おじ》さんにも頼んでみたの?」
「頼んだけど、あちらもそう|余《よ》|裕《ゆう》はないようでね」
「でも、叔父さんの会社が|潰《つぶ》れそうになったとき、お父さんが|無《む》|理《り》して助けてあげたんじゃないの」
「それはそれよ」
「勝手ね!」
美幸は青ざめていた。ショックと|憤《いきどお》りで、声が|震《ふる》えている。
「仕方ないわよ、みんな自分の生活があるんだから」
「叔母さんの所も?――だめなのね」
久代は軽く|肯《うなず》いて、
「ともかく、心当りはみんな当ってみたの。でもねえ……一人も|見《み》|込《こ》みのありそうな人はいなかったよ」
「じゃ、どうなるのよ、|私《わたし》たち!」
美幸が|叫《さけ》ぶように言って、|唇《くちびる》をかんだ。|涙《なみだ》が|溢《あふ》れ出て来る。
「落ち着きなさい。何とかなるわよ」
久代は、美幸の|肩《かた》へ手を置いた。
朋子にしても、ショックは同じだ。しかし、ここでただ|呆《ぼう》|然《ぜん》としていても仕方ない。
ともかく、冷静になるのだ。美幸は学生で――まだ|子《こ》|供《ども》だ。母にしても、実際の生活力、働いて、食べて行く、ということは全くできない人なのである。
私がしっかりしなければ、みんなだめになる。朋子はそう自分に言い聞かせた。
朋子は立ち上って台所に行くと、湯を|沸《わ》かし直して、|紅《こう》|茶《ちゃ》を|淹《い》れた。|滅《めっ》|多《た》に使うことのない、ウェッジウッドのティーカップを出して来て、使うことにした。
「――|大丈夫《だいじょうぶ》?」
居間へ入って行き、美幸に声をかけると、美幸はやっと|涙《なみだ》を|押《おさ》えてすすり上げた。
「さあ、紅茶、淹れて来た。ともかく、くよくよしてたって、仕方ないでしょ」
「本当にそうだね」
と久代は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「お父さんの|馬《ば》|鹿《か》!」
美幸が|吐《は》き|捨《す》てるように言って、紅茶のカップを取り上げた。
「――ともかく、ここにはいられないわね」
と朋子は言った。「どこか、アパートでも借りて|引《ひっ》|越《こ》すしかないんじゃない?」
「|惨《みじ》めだなあ」
と美幸が|愚《ぐ》|痴《ち》った。「大学もやめるの?」
「何とかして行かせてあげる」
と朋子は言った。「その代り、あなたもアルバイトぐらいしてくれなきゃ」
「うん……」
「すまないね、お前たちに……」
「お母さんが悪いんじゃないわ。何も|謝《あやま》る必要ないじゃない」
朋子は、正直、母の体が心配だった。このショックに|堪《た》え|切《き》れるかどうか。今は気が|張《は》っているが、その、反動が来たときが|怖《こわ》い……。美幸がふと思い付いたように、
「お父さんを|捜《さが》してるのかしら、銀行の方で?」
「まさか。|警《けい》|察《さつ》じゃないのよ。私たちだってそんなことしてられないし……」
「じゃ、お父さんは女と二人で、のんびり|暮《くら》してるわけね」
「お父さんだって、きっと気の休まるときはないわよ」
久代は首を|振《ふ》りながら言った。「私たち以上に苦しんでるよ」
美幸が、むっとした顔で何か言いかけたが、朋子はそれを目で|押《お》し|止《とど》めた。
「――でも、|諦《あきら》めてしまう前に、何か方法がないか、みんなで考えてみようよ」
と朋子は、できるだけ気楽な口調で言った。
方法があるかないか。――それはもう分り切っていたが、今はともかく、何か話し、考えている方がいいのだ。
雨が強くなったのか、雨音が、|居《い》|間《ま》にも|忍《しの》び|込《こ》んで来た。
この家から出て行かなくてはならない。朋子にとって、いやおそらく母にとっても、それはとても実感することのできない事態だった。
――朋子は、自分が動かなくては、と心に決めた。母にこれ以上、|負《ふ》|担《たん》をかけてはならない……。
〈田沢〉という|表札《ひょうさつ》。高い|塀《へい》の|奥《おく》で、犬の|吠《ほ》える声がする。
朋子は、その堂々とした|門《もん》|構《がま》えの前を、もう五、六回も行きつ|戻《もど》りつしていた。
やって来たものの、どう話をしたものか分らない。田沢とは、顔見知りというほどでもなかったし、向うにとっては、あくまでビジネスなのだろう。それを、こんな日曜日に、|自《じ》|宅《たく》へやって来てしまって、|却《かえ》って田沢を|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》にさせるだけではないのか……。
前もって、電話をして来れば良かったのだが、にべもなく|断《ことわ》られてしまったら、という|怖《おそ》れでどうしてもかけられなかったのである。
「しっかりしなきゃ!」
自分に言い聞かせるように、口に出してそう言ってから、朋子は足早に門の前へ行き、|呼《よび》|鈴《りん》のボタンを|押《お》した。
静かな|住宅街《じゅうたくがい》だった。よく晴れているが、風が少し冷たい。家の中は静かだった。返事がない。――|留《る》|守《す》だろうか。
もう一度ボタンを押すと、
「どちら様ですか?」
と、インタホンから、|女《じょ》|性《せい》の声がした。
「あの……田沢さんにお目にかかりたいのですが。村山と申します」
「|旦《だん》|那《な》|様《さま》はお出かけでございますが」
と、お手伝いさんらしい、その女性の声が答えた。
「そうですか。――いつ|頃《ごろ》お|戻《もど》りになられますか?」
「お|約《やく》|束《そく》でも?」
「いえ……そうではないんですが」
「ちょっとお帰りは分らないんですよ」
どうも、それほど大事な客ではないという|判《はん》|断《だん》を下したらしい。言い方が|突《つ》っけんどんになって来た。これではだめだ。やはり銀行の方へ出向くべきだったろうか。
「それではまた出直して参ります」
「はい」
うるさそうな声だった。
朋子は、散々|迷《まよ》ったり、|気《き》|後《おく》れしていた自分が|馬《ば》|鹿《か》らしくなった。――仕方ない。帰ろう。
門の前から|離《はな》れて歩き出すと、向うから、一人の青年が歩いて来た。
銀行員かしら、と直観的に朋子は思った。
――|別《べつ》に|背広姿《せびろすがた》ではなく、|分《ぶ》|厚《あつ》いセーターにスラックス姿だったのだが、どことなく|折《おり》|目《め》正しい感じがして、|髪《かみ》も短くしてあるのが、そんな印象を|与《あた》えた。
永年、父や、家に出入りしている|若《わか》い銀行員たちを見ていたせいで、何となくそれらしい人は分るようになっている。
顔を半ば|伏《ふ》せて|行《い》き|過《す》ぎようとすると、
「あの――」
と、その青年が声をかけて来た。
「はい」
朋子は|振《ふ》り|向《む》いた。
「うちにご用ですか?」
「田沢さんの……」
「父に何か?」
これが田沢の|息子《むすこ》か。そういえば一人息子が銀行に入っている――それも父のいた支店にいると聞いたことがあった。
「はい。ちょっとお目にかかりたいと思いまして……」
「父は何だか友達の所へ行ってるんです。どうせ|将棋《しょうぎ》か何かですよ。もう|戻《もど》ると思いますが。――あなたは?」
「あの……」
言いかけて、ためらった。名前を言ったら、この愛想の良さが、ガラッと変るかもしれない、と思うと、|怖《こわ》かった。
「ああ!」
と、田沢の息子は|肯《うなず》いて、「支店長のお|嬢《じょう》さんだ。そうでしょう?」
朋子は|戸《と》|惑《まど》った。
「はい。村山です」
「以前、パーティでお会いしましたよ。どこかで会った人だな、と思っていたんです。さあ、どうぞ」
と|促《うなが》す。
「でも……」
「父は一時間もすれば帰りますよ。ともかくせっかくいらっしゃったんですから、上って下さい」
|彼《かれ》の口調は一向に変らなかった。朋子にはそれが不思議でならなかった。
しかし、相手がそう言ってくれるのだから、|断《ことわ》ることはあるまい。
「では、お言葉に|甘《あま》えさせていただいて――」
「さあ、どうぞ」
と歩きながら、「|僕《ぼく》は|田《た》|沢《ざわ》|和《かず》|彦《ひこ》といいます。お父さんにはずいぶんお世話になりました」
「そんな……。とんでもないことをしてしまって、本当に|申《もう》し|訳《わけ》ないと――」
「あなたが|謝《あやま》ることはありませんよ」
田沢和彦は、通用口の戸を開いて、「さあ入って下さい」
と|促《うなが》した。
――よく手入れされた庭が、|居《い》|間《ま》から|見《み》|渡《わた》せた。さっき、インタホンに出て来た|女《じょ》|性《せい》が、お茶を運んで来た。
「――大変ですね」
と、田沢和彦が言った。「支店長はよくできた人だと、みんなにも人気があったんです。|誰《だれ》もがびっくりしていますよ」
「お父様はお|怒《おこ》りでしょうね」
「父には|直接《ちょくせつ》関係はありませんからね。それにあなたのお父さんとも親しかったし」
朋子は、田沢和彦の|屈《くっ》|託《たく》のない|笑《え》|顔《がお》に、ここへ足を|踏《ふ》み|入《い》れたときの、|圧《お》し|潰《つぶ》されそうな|圧《あっ》|迫《ぱく》|感《かん》、|緊張感《きんちょうかん》が少しずつ|溶《と》けて行くのを感じた。
「父にどんなご用ですか?」
朋子は、この人になら、話しやすい、と思った。田沢へも、|口《くち》|添《ぞ》えしてくれるかもしれない。
「実は――」
と口を開きかけたとき、居間のドアが開いて、田沢が入って来た。
銀行での|背広姿《せびろすがた》を見たことはあるが、こうして|自《じ》|宅《たく》に和服でいるのを目にすると、まるで|別《べつ》|人《じん》のように見える。
「お父さん、早かったね」
「お客か?」
朋子は立ち上った。
「村山さんのお|嬢《じょう》さんじゃないか」
と田沢和彦が言った。
「ああ、そうか。いや、前に会ったのは大分前だからな。そうですか。まあ|座《すわ》りなさい」
田沢は、それほどいやな顔もせずに言った。
「父がご|迷《めい》|惑《わく》をおかけして|申《もう》し|訳《わけ》ありません」
「いや、私も参ってるんですよ」
田沢はソファに身を|沈《しず》めた。「あんたのお父さんは、そりゃあ|真《ま》|面《じ》|目《め》人間だったからねえ。何も|連《れん》|絡《らく》はないのかな」
「はい、今のところは……」
「そうですか。まあ、あんた達も大変だろうね。お母さんは体が弱いとか聞いたが」
「|心《しん》|臓《ぞう》が少し……」
「それはいかん。そんな|奥《おく》さんを残して、女と|逃《に》げてしまうとは、村山もどういう気持なのか……。私に何か話でも?」
「はい。実は……その母の|健康状態《けんこうじょうたい》などもありまして、お金をお返しするのを、少しお待ちいただけないかと……。|預《よ》|金《きん》などはよろしいのですが、今、家を移るのが、母には|負《ふ》|担《たん》が大きいものですから」
「そりゃそうだろうね。もちろん|私《わたし》の|一《いち》|存《ぞん》でどうにかなるものなら、そうしてあげたい。しかし、金額が金額だから、ちょっと目をつぶるというわけにもいかんのでね」
「それはもう、よく|承知《しょうち》いたしております。私どもでも、移る先を|捜《さが》して、|一《いち》|応《おう》、これと思うところを見付けたのですが、ちょうど母が|寝《ね》|込《こ》んでしまいまして」
「それは|気《き》の|毒《どく》に。――|大丈夫《だいじょうぶ》なのかな」
「すぐに|危《あぶ》ない、ということはないようなのですが、|無《む》|理《り》をしてはいけないと止められておりまして」
「もちろん、家は|押《おさ》えてはあるが、何もすぐに出て行ってくれというわけじゃない。多少の期間はこちらとしてもみているがね」
そのとき、電話が鳴って、和彦が立って行った。
「――お父さん。|永《なが》|井《い》さんから」
「ん? 何だ……」
田沢は受話器を取った。「――私だ。――それで?――どうして|洩《も》れた?」
田沢の声が高くなった。――朋子はギクリとした。ただごとではないようだ、と分った。
父の|件《けん》に関係したことでなければいいのだが。せっかく田沢が、朋子に|同情《どうじょう》してくれているというのに……。
「――分った。ともかく、取材は|一《いっ》|切《さい》お|断《ことわ》りだ。電話で|連《れん》|絡《らく》をつけておけ。――支店の人間、全部だ!」
田沢の言葉は|厳《きび》しかった。
田沢が受話器を置くと、和彦が、
「何かあったの?」
と|訊《き》いた。
田沢は答えずにソファに|座《すわ》った。その|苦《にが》|々《にが》しい表情で、朋子は自分の不安が的中したことを知った。
「父のことで……」
「|週刊誌《しゅうかんし》がかぎつけた」
と田沢は言った。「記事にするのは止められん。いいか、和彦、お前も|余《よ》|計《けい》なことはしゃべるんじゃないぞ」
「分ってるよ」
和彦はチラリと朋子を見て、「|警《けい》|察《さつ》も当然出て来るね」
と言った。
「今、|被害届《ひがいとどけ》を出したところだそうだ」
警察……。父が警察に追われるのだ。朋子は、父のことなど、どうなっても一向に|構《かま》わない、と、頭では考えていたが、やはり、|胸《むね》に|鈍《にぶ》い|痛《いた》みが生れるのを感じた。
「今日は帰ってくれ」
と田沢は朋子に向って言った。「あんたがここにいるのを見られるのはまずい」
朋子は、言葉にならない|呟《つぶや》きで、はい、と答えた。
「お父さん、そんな風に言っちゃ|気《き》の|毒《どく》だよ」
と和彦が口を|挟《はさ》む。
「お前は|黙《だま》っていろ」
と、田沢は言った。「私には|副《ふく》|頭《とう》|取《どり》という立場がある」
「本当に|申《もう》し|訳《わけ》ありません」
朋子は立ち上った。
「全くだよ。私はあんたの父親と親しかったから、なおさら|迷《めい》|惑《わく》だ。あんたも|週刊誌《しゅうかんし》や何かに追われるかもしれないが、口をつぐんでいてくれるね」
「はい」
「その代り、|警《けい》|察《さつ》にはよく協力して、父親から|連《れん》|絡《らく》があったら|隠《かく》さずに話すことだ」
朋子にしても、父をかばう気は全くなかった。
朋子は、|田《た》|沢《ざわ》|邸《てい》を|辞《じ》して、表の通りを百メートルほど来たとき、|背《はい》|後《ご》に走って来る足音を耳にして、足を止めた。
和彦だった。
「――やあ、足が早いね」
と息を|弾《はず》ませている。
「あの――何か?」
「いや……」
和彦は、ちょっと|考《かんが》え|込《こ》んだ様子で、「そうだな、何のために追いかけて来たのか、考えてみるとよく分らないけど……ともかく気になってね」
「どうしてですか?」
「だって……何かと大変だろう。できるだけ力になるからね」
それだけのことを言いに、こんな遠くまで追いかけて来たのかと思うと、朋子はつい|笑《わら》い|出《だ》しそうになってしまった。すると、和彦の方が笑い出した。
「笑ってる場合じゃないのにね」
と、和彦は言って、「ともかく、|困《こま》ったことがあったら、相談においで」
「ありがとうございます。お気持だけで|充分《じゅうぶん》ですわ」
「いや、本当に、気持だけじゃないんだよ。何かあればぜひ――」
和彦はしつこく言い立てた。
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|朋《とも》|子《こ》が、あんな風に|不《ふ》|首《しゅ》|尾《び》に話が終ってしまったのに、何か明るい気分で帰路につくことが出来たのは、|田《た》|沢《ざわ》|和《かず》|彦《ひこ》のせいだった。
いかにも金持の|坊《ぼっ》ちゃんらしいおっとりとした|風《ふう》|貌《ぼう》は、いわゆるエリートとは|縁《えん》|遠《どお》い、人間的な、|暖《あたた》かい印象を|与《あた》えた。
元来が、あまり銀行員というタイプではないのかもしれない。時には|冷《れい》|酷《こく》に|割《わ》り|切《き》らねばならない|職業《しょくぎょう》には、あまり向いていないように見えた。
その点で、田沢和彦が村山のことをできればかばいたいと思っているらしいことは朋子にも|理《り》|解《かい》できた。村山は和彦と|似《に》たタイプの人間だったからだ。
「――何かしら」
足を止めて、朋子は思わず|呟《つぶや》いた。
もう家の近くまで来ていた。道の向うに、何か集まっている人々が見える。集まっているといっても、何となく同じ所にいて、勝手にぶらついているという感じだ。
十人近くいるだろうか。――どうも、朋子には、自分の家の前あたりのように思えた。
近付いて行くと、それが記者やカメラマンたちだと分った。父の|件《けん》が発覚して、取材に来ているのだ。
朋子は、目を|疑《うたが》いたかった。それほどの事件なのだろうか。父はそんなに悪いことをしたのだろうか。
歩いて行くと、記者やカメラマンたちが、チラッと朋子の方を見る。しかし、まさか当の家の|娘《むすめ》だとは思わないのだろう、|別《べつ》に関心もなさそうに、すぐに目をそらした。
朋子は、このまま通り|過《す》ぎてしまおうかと思った。家へ入ろうとすれば、あれこれと|訊《き》かれるに|違《ちが》いない。
だが、朋子は、記者たちの車に|混《ま》じって、パトカーが|停《とま》っているのに気付いた。――|警《けい》|察《さつ》が来ているのだ。母と|美《み》|幸《ゆき》だけにしてはおけない。
しかし、記者たちに見られずに入る方法はない。朋子は、少し手前で足を止めた。通用口といっても、|裏《うら》にあるのではなく、この同じ道に面している。記者の目につくのは同じことだ。
「すみません」
と、声がした。
「え?」
「美幸さんのお姉さんですね」
|振《ふ》り|向《む》くと、どこに立っていたのか、|二十歳《はたち》ぐらいの、ヒョロリとした長身の|若《わか》|者《もの》が歩いて来た。
「あなたは……」
「|僕《ぼく》は|久《く》|米《め》っていいます」
と、その若者はピョコンと頭を下げた。「美幸さんの――友人なんです」
朋子はちょっと面食らった。美幸にこんなボーイフレンドがいるなどとは、全く知らなかったのである。それに――およそ美幸|好《ごの》みとは見えない。|髪《かみ》を長くして、口ひげまで生やしている。
「久米さん、ね。――ここで何をしているの?」
「ニュースを聞いて、飛んで来たんです。ずっと|彼女《かのじょ》が下宿に|戻《もど》ってないから心配してたんだけど……」
「美幸に会って?」
「いえ、さっき来たんですけど、あの通りでしょう。といって、帰るというのもいやだし、ここでぼんやりしてたんです」
「よく|私《わたし》のことが分ったわね」
「彼女が、|一《いっ》|緒《しょ》に写ってる写真を見せてくれたことがあるんです。――中へ入るんでしょ?」
と、朋子の家の方をちょっと見る。
「でも、あの人たちに|捕《つか》まらずに入れるかしら」
「|任《まか》せて下さい」
と、久米という|若《わか》|者《もの》は言った。
「どうするの?」
「あなたのこと、まだ|誰《だれ》も気が付いていないでしょう。このまま、|無《む》|関《かん》|係《けい》なような顔で歩いて行って下さい。|僕《ぼく》が連中の注意をひきつけます。その間に中へ入って下さい」
「そんなことを……」
「|構《かま》やしません。じゃ、|巧《うま》くやって下さい」
止める間もなく、久米はさっさと通用口の方へ向いて歩き出した。そして、|途中《とちゅう》で足を止めると、|振《ふ》り|向《む》いて、|促《うなが》すように朋子へ|肯《うなず》いて見せた。
朋子は、仕方なく歩き出した。わざと、道の、門と|離《はな》れた側の|端《はし》を歩いて、記者たちのわきをすり|抜《ぬ》けようとした。そのとき、通用口の方で、
「この|野《や》|郎《ろう》!」
と大声がした。びっくりして振り向くと、さらに、
「出て来い! ここを開けろ」
と、久米の|怒《ど》|鳴《な》り|声《ごえ》がして、通用口をドンドン|叩《たた》いたり|蹴《け》ったりし始めた。
記者やカメラマンたちが|一《いっ》|斉《せい》に通用口の方へと走って行く。朋子は、久米の|乱《らん》|暴《ぼう》なやり方に、いささか|呆《あっ》|気《け》に取られながら、あわてて門へと走った。インタホンを鳴らして、
「美幸! 私よ、入れて!」
と|呼《よ》びかける。
記者たちはまだ気付いていないようだ。――早く来て。早く。
幸い、すぐに美幸が|玄《げん》|関《かん》から|駆《か》け|出《だ》して来るのが見えた。
急いで中へ入ると、門を|閉《と》じて、息をついた。
「お母さんは?」
と朋子は|訊《き》いた。
「|警《けい》|察《さつ》の人としゃべってる。あの通用口の方の|騒《さわ》ぎ、何?」
「久米君とかいう人よ」
美幸が目を見開いた。
「久米君が来てるの?」
「いい人ね。みんなの注意をそらしてくれたのよ」
「そうなのか」
美幸は、|笑《え》|顔《がお》になった。「|無《む》|茶《ちゃ》な人なのよね」
「ともかく、入りましょう」
と朋子は|玄《げん》|関《かん》のドアを開けた。
「それはどうもありがとう」
|久《ひさ》|代《よ》が、|居《い》|間《ま》のソファに何となく落ち着かない様子で|座《すわ》っている久米に頭を下げた。
「いいえ、とんでもないです」
久米の方が|恐縮《きょうしゅく》の|態《てい》だ。
「でも、美幸、どうして|私《わたし》に何も言わなかったの?」
と朋子は冷やかすように言った。
「だって、お姉さん、|私《わたし》のこといつも|子《こ》|供《ども》だと思ってるから」
と、美幸が言い返す。
|深《しん》|刻《こく》になりがちな|雰《ふん》|囲《い》|気《き》に、二人とも|殊《こと》|更《さら》に反発しているようだった。
「ともかく、ここは|引《ひ》き|払《はら》わなくてはね」
と、久代が言った。「こうして取材の人が色々やって来たりしたら、やり切れないものね」
それは朋子も|認《みと》めざるを|得《え》なかった。ここから、|手《て》|狭《ぜま》なアパートへ移るのは|辛《つら》いが、ここに|頑《がん》|張《ば》っていても、|却《かえ》って|神《しん》|経《けい》をすり|減《へ》らすだけだ。
「何かお役に立つのなら……」
と、久米が言った。
「ありがとう。そのときにはお願いするかもしれないわ」
と久代が言った。
美幸が、|居《い》|間《ま》の中をゆっくりと見回して、
「――ここともお|別《わか》れか」と言った。
あまり|感傷的《かんしょうてき》でない、あっさりした口調だったが、それが|却《かえ》って朋子の|胸《むね》に|食《く》い|込《こ》んだ。
「まあ、何とか一つ分ってほしいんだよ」
と課長が言った。
朋子は|黙《だま》って|肯《うなず》いた。――使っていない会議室に、朋子と、課長の二人きりだった。
「君はとても良くやってくれた」
と課長は言った。「お父さんと君とは|別《べつ》なんだから、とは思うんだが、会社のお|偉《えら》|方《がた》はなかなかそう思っちゃくれない」
「分ります。当然だと思います」
課長は|困《こま》ったように、
「そう|素《す》|直《なお》に言われると却って|辛《つら》いよ」
と息をついた。「もう一度、何とか課を移るだけで、この会社に残れるように、部長にも話してみるよ」
「ありがとうございます」
朋子は目を|伏《ふ》せたまま頭を下げた。
予想はしていた。しかし、こんなにも早いとは思わなかったのだ。父の|件《けん》が、新聞紙上をにぎわした|翌《よく》|日《じつ》である。
朋子が|経《けい》|理《り》にいたことも、|影響《えいきょう》しているだろう。親の|犯《はん》|罪《ざい》に、|子《こ》|供《ども》が|責《せき》|任《にん》を取る必要はないが、会社の|経《けい》|営《えい》|者《しゃ》にしてみれば、そんな|建《たて》|前《まえ》のために|危《き》|険《けん》を|冒《おか》すことはできないに|違《ちが》いない。
「もし……どうしてもだめなときは、|僕《ぼく》にも二、三、心当りがあるから……」
と課長は言った。
|同僚《どうりょう》たちは、そんな朋子に|同情《どうじょう》を|寄《よ》せてくれていた。しかし、朋子としても、それに|甘《あま》えているわけにはいかない。
どうせ、ここは|辞《や》めなくてはなるまい、と朋子は思った。今、辞めて、次の|職場《しょくば》は見付かるだろうか? 課長の言葉も、あてにはできない。
席へ|戻《もど》ると、|隣《となり》の|足《あ》|立《だち》|広《ひろ》|子《こ》が、
「課長、何だって?」
と声をひそめて|訊《き》いて来る。
「|別《べつ》に……」
朋子は|曖《あい》|昧《まい》に言った。うまい具合に電話が鳴った。
「村山です」
「|僕《ぼく》だよ」
と|杉《すぎ》|岡《おか》の声がした。
|久《ひさ》しぶりだ、という気がした。――ともかくずっと父の|行方《ゆくえ》を|捜《さが》したりしてくれていたので、ちょくちょく顔を出してはいたのだが、二人きりで話す時間は全く取れない。そのせいで、ずいぶん会わなかったような気がするのである。
「そっちは、どう?」
と朋子は訊いた。
「大変だよ。TV局や何かが|押《お》しかけて来てね」
「そうでしょうね」
「ちょっと、会えないかな」
「今?――|大丈夫《だいじょうぶ》なの、そっちは」
「うん、|構《かま》わない」
「分ったわ。行きます」
朋子は課長の席へ行って、一時間ほど外出したい、と言った。課長は|快《こころよ》く|認《みと》めてくれた。多少、朋子に後ろめたさを感じているのだろう。
一階へ|降《お》りて行くと、エレベーターホールで、杉岡が待っていた。
「やあ」
|笑《わら》いかける杉岡の|表情《ひょうじょう》が、多少わざとらしかった。――朋子は、杉岡の話がもう分ったような気がした。
|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》に入って、しばらく二人の口からは言葉が出なかった。
いつもの杉岡なら、朋子の会社ではどうなのかと|訊《き》いてくれるのだろうが、今日は、そこまで頭が回らないのだ。
「色々|迷《めい》|惑《わく》かけちゃって――」
と朋子が言いかけると、杉岡は、
「いや、そんなこと、君が|謝《あやま》る必要はない。君は何も悪いことなんかしちゃいないんだから」
と早口に言って、また口をつぐんだ。
こっちから言い出そう、と朋子は思った。杉岡からは|言《い》い|辛《づら》いに|違《ちが》いない。いい人なのだ。――しかし、〈いい人〉以上であることはない。
「|私《わたし》と|婚《こん》|約《やく》同然だって、みんな知ってるの?」
と朋子は訊いた。
「いや……」
「じゃ、よかったわ。|別《わか》れましょうよ、私たち」
朋子は努めて軽く、言った。
「君は……でも……」
「お金を|持《も》ち|逃《に》げした支店長の|娘《むすめ》と|一《いっ》|緒《しょ》になるなんて、あなたは|絶《ぜっ》|対《たい》に出世できなくなるわ」
「出世なんかいいんだ。ただ――」
「それに、私は当分|結《けっ》|婚《こん》のことなんか考えられない。母も妹もいるわ。あなたにずっと待っていてとは言えないもの」
杉岡はテーブルに|視《し》|線《せん》を落とした。ホッとしたような|表情《ひょうじょう》が、見えていた。
「私も、この会社、|辞《や》めるの」
「辞める?」
「|一《いち》|応《おう》自主的な|退職《たいしょく》ね。少しは退職金も入るし、|引《ひっ》|越《こ》しの分ぐらいは出せるから」
「後はどうするの」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。心当りがあるから」
「そうか……」
杉岡は低く|呟《つぶや》いた。
「あなたもいい人、見付けてね」
朋子は、|微《ほほ》|笑《え》みながら言った。
「君はいい人だな……。じゃ、もう会わない方がいいのかな」
「そうよ。これっきりで、ね」
杉岡は、暗い|表情《ひょうじょう》でうつむいた。――分っているのだ。自分の身が大切だというので、朋子に、|別《わか》れてくれと言いに来たのに|違《ちが》いない。
朋子の方から、そう言われて、杉岡はどうしようもなく、自分を|恥《は》じているのだ。
「もう行かなくちゃ」
もっとゆっくり|座《すわ》って話していたかった。しかし、杉岡に|辛《つら》い思いをさせるだけである。
朋子は立ち上った。そして、店の出口へと歩いて行く。杉岡が|呼《よ》び止めるだろうか?
結局、朋子は店を出て、そのまま会社へと|戻《もど》った。
これが杉岡のためなのだ。――そう自分へ言い聞かせる。
会社へ戻って、席についてから、やっと、|寂《さび》しいという思いを味わった。
午後の仕事の|途中《とちゅう》で、母から電話がかかって来た。
「何かお話があった?」
と久代が気にして|訊《き》いて来る。
「ええ」
「|辞《や》めてくれ、とかい?」
「ええ、まあね」
「お前にまで、苦労をかけるね」
「何を言ってるの。会社の電話よ」
「そうだったね」
久代が、|呑《のん》|気《き》に軽く声を立てて、|笑《わら》った。
「何とかなるわ。|大丈夫《だいじょうぶ》よ、心配しなくっても」
「|私《わたし》も元気なら働くんだけどねえ……」
「やめてよ、お母さんじゃとても|勤《つと》まらないわ」
「ともかく……早く帰っておいで」
「ええ」
朋子は受話器を置いて、しばらくは、そのまま、じっと身動きもせずにいたが、ふと立ち上って、広い|窓《まど》の方へ、書類か何かを|探《さが》そうとするかのように、歩いて行く。
もう、どこか見知らぬ場所にいるような、そんな気がしていた。
辞める、と決めたその|瞬間《しゅんかん》から、その|職場《しょくば》は、遠い|異境《いきょう》のように思えて来るのである。
朋子は窓から、|遥《はる》か下の|街《まち》|並《なみ》と、人の流れを見下ろした。
遠くから見ると、人々は、|滑《なめ》らかに、|淀《よど》みなく動いて行くように思えた。|実《じっ》|際《さい》は、|疲《つか》れ切った人も、|駆《か》け|出《だ》している人もあるのだろうが。
早く、あの中の一人になって、どこかへ消えてしまいたい、と朋子は急に考えた……。
第二章
1
|朋《とも》|子《こ》は、タイプのキーを打つ手を休めて、息をついた。ふと時計を見上げる。
「もう三時……」
前の会社なら、みんなで|紅《こう》|茶《ちゃ》を|淹《い》れて飲んだりしたものだ。――このちっぽけな|事《じ》|務《む》|所《しょ》では、そんな|優《ゆう》|雅《が》な仕事はしていられない。
ふと、こめかみを|刺《さ》すような|痛《いた》みが|襲《おそ》って、目を|閉《と》じる。――|疲《つか》れているのだ。
朋子は親指と人さし指で目の間を|押《おさ》えた。少し|視力《しりょく》も落ちたのかもしれない。何しろ、ケチな社長で、スタンド一つ買ってくれないから、|天井《てんじょう》の|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》の|貧弱《ひんじゃく》な明りで、全部の仕事をしなくてはならない。
さあ、もう|一《ひと》|頑《がん》|張《ば》り……。朋子は自分にそう言い聞かせた。
毎日が、流れ落ちる水のように、早く、そして指の間からすり|抜《ぬ》けて|逃《に》げて行く。一か月、二か月が、かつての一日か二日のようにさえ思える。
「――村山さん」
|背《はい》|後《ご》から、|安《あん》|西《ざい》エリ子の声がかかって、朋子はビクッとした。
「はい」
「ちょっと出て来るから、後を|頼《たの》むわね」
「はい」
「ここにある伝票、このままにしておいていいから」
「分りました」
もう五十近いのに、|厚化粧《あつげしょう》で、まるで|魔《ま》|女《じょ》みたいとかげ口を|叩《たた》かれている安西エリ子は、くたびれ切った|事《じ》|務《む》|服《ふく》のポケットへ手をつっこんで、パタパタとサンダルの音をたてながら、事務所を出て行った。
「行った、行った!」
と、|峰《みね》|千《ち》|代《よ》|子《こ》がのびをした。
事務所中が、急に明るくなったような気がした。――何しろ安西エリ子は社長の公然の愛人で、底意地の悪い|性《せい》|格《かく》も手伝って、みんなに|毛《け》|嫌《ぎら》いされているのである。
みんな、といっても、朋子を|含《ふく》めて、事務員は女の子が五人しかいない。
朋子は、席を立つと、安西エリ子の|机《つくえ》の上の伝票を取って来た。
「放っときなさいよ」
と峰千代子が言った。
「そうもいかないわ。後でブツブツ言われるよりはね……」
朋子は伝票の整理を始めた。
安西エリ子が、「伝票はこのままにしておけ」と言うのは、要するに、「いない間にやっておけ」ということなのである。それを|呑《の》み|込《こ》むまで、朋子は何度も|嫌《いや》|味《み》を言われて、|悔《くや》し|涙《なみだ》をかみしめた。
今はもう、|扱《あつか》い|方《かた》も分って来た。もちろん自分の仕事は|遅《おく》れてしまうが、それは少し|頑《がん》|張《ば》れば|済《す》むことである。
「自分は夕ご飯のおかずか何か買いに行ってさ、人には私用電話一つも|叱《しか》りつけるんだから、勝手なもんよね」
峰千代子は|大《おお》|欠伸《あくび》をした。
朋子は|黙《だま》ってちょっと|微《ほほ》|笑《え》むと、伝票の仕分けを始めた。
この|三《み》|船《ふね》メールサービスという会社へ入ったのは、新聞の求人広告を見てのことだった。|誰《だれ》かの|紹介《しょうかい》で|探《さが》すといっても、時期が悪かった。前の会社を|辞《や》めてしばらくは、父の|横領《おうりょう》と|失《しっ》|踪《そう》が|週刊誌《しゅうかんし》をにぎわしたし、その取材に来る記者たちに、朋子も|美《み》|幸《ゆき》も追い回された。
そんな時期に仕事を紹介してくれる|物《もの》|好《ず》きもいないし、受け入れてくれる会社もなかっただろう。朋子は、自分で、できるだけ小さな、あまり|応《おう》|募《ぼ》する者のなさそうな、この会社を選んだのだった。
仕事はDM(ダイレクト ・ メール)や、定期刊行物の発送代行で、朋子にしろ他の女子社員たちにしろ、仕事の内容は|雑《ざっ》|多《た》な|事《じ》|務《む》、時には発送の|現《げん》|場《ば》で|封《ふう》|筒《とう》の仕分けなどを手伝わされることもあった。
|技術《ぎじゅつ》は必要ない代りに、単調で、|張《は》り|合《あ》いのない仕事である。
「そろそろ|冬《ふゆ》|仕《じ》|度《たく》しなきゃね」
と、峰千代子が言った。
安西エリ子がいないと、仕事をしようという気になれないのだ。
「そうねえ。もう十月も末ですものね」
と、朋子は言った。
ふと、伝票をめくっていた手が止まる。
立ち上って、|薄《うす》|暗《ぐら》い|廊《ろう》|下《か》へ出た。――ここは|貸《かし》ビルの三階で、もちろん、フロアの全部を借りているわけではない。ビルの持主も、三船メールサービスの社長、三船と|似《に》てケチなのか、節電と|称《しょう》して廊下の照明を|極端《きょくたん》に|減《へ》らしているのである。
女子トイレの前を|通《とお》り|過《す》ぎると、朋子は、|階《かい》|段《だん》の所へ歩いて行った。――|窓《まど》があって、遠くに、新宿のけむったような|街《まち》|並《なみ》と、|超高層《ちょうこうそう》ビルが望める。
まだ寒いというほどの気候ではなかったが、|灰《はい》|色《いろ》の|壁《かべ》と、灰色の|街《まち》と、|曇《くも》った灰色の空は、寒々とした|侘《わび》しさを感じさせた。
もうすぐ一年にもなるのだ。
小さなアパートへ|引《ひっ》|越《こ》しての、母との二人|暮《ぐら》し。美幸は下宿を続けていたが、アルバイトで生活費は|稼《かせ》いでいる。
冬を|過《す》ごし、春、夏、秋と|迎《むか》え、送って、やがてまた冬が来る。――事件に追われ、雪の中にまで写真のフラッシュが光った何か月か。
落ち着いたのは、三か月近くもたってからのことだった。
|警《けい》|察《さつ》の調べで、村山は|宮《みや》|島《じま》|裕《ゆう》|子《こ》という|女《じょ》|性《せい》と|逃《とう》|走《そう》したことが分った。宮島裕子は、村山が社用でたまに顔を出していたクラブの女性だったが、身よりらしい者も|一《いっ》|切《さい》なく、友人もない、一風変った女だったらしい。
二十六|歳《さい》という|年《ねん》|齢《れい》、そのクラブにいたのも、わずか半年ということで、村山との|仲《なか》はかなり急速に|進《しん》|展《てん》し、村山を|好《す》きなように|操《あやつ》って、金を使わせたものと思われた。
しかし、そうなると、一億という金を、村山がかなり長期間にわたって|使《つか》い|込《こ》んでいたという点と|矛盾《むじゅん》が出て来た。
村山が、宮島裕子と知り合う以前に使い込んだ金は、どう使われたのか。その点は警察の|捜《そう》|査《さ》もついに明らかにすることはできなかった。
おそらく、他の女に使ったものだろう、という|推《すい》|測《そく》は、何の|裏《うら》|付《づ》けも|得《え》られなかったのだ。
そして|肝《かん》|心《じん》の点。――村山と宮島裕子がどこへ行ったのか。どこで|暮《くら》しているのか。それは今も|皆《かい》|目《もく》分らないのである。
警察の捜査も、今はほとんど打ち切られたも同然の|状態《じょうたい》で、新しい進展は望めなかった。
朋子とて、時々父のことを考えないわけではない。――どこで、どうして暮しているのか。いや……それ以前に、生きているのかどうか。
|週刊誌《しゅうかんし》などに、宮島裕子が|暴力団員《ぼうりょくだんいん》とグルで、村山から金を|絞《しぼ》り取った|挙《あげ》|句《く》、殺して死体をどこかへ|捨《す》てたのだろうという|臆《おく》|測《そく》も流れた。しかし、いずれにしても、何一つ、裏付けとなる事実はなかったのである。
そして、もう一つ、|捜《そう》|索《さく》を|困《こん》|難《なん》にしていたのは、宮島裕子の、はっきりとした顔写真が一|枚《まい》もないという点だった。クラブ|勤《づと》めにしては|珍《めずら》しく写真をとられることを|嫌《きら》って、仕方なく入ることがあっても、極力うつむいたり|斜《なな》めを見て、カメラに顔を向けていないのである。
|従《したが》って、手配写真は|至《いた》って印象の|曖《あい》|昧《まい》なものにならざるを|得《え》なかった。――不思議な女だった。
もうすぐ、一年になる……。父は、何を考えているだろうか、と朋子は思った。
「村山さん」
と、峰千代子が|呼《よ》びに来た。「電話よ」
「はい」
「久米さんっていう男の人」
「ああ……」
「恋人?」
「妹のね。大学生なの」
「なんだ、つまらない」
と峰千代子はがっかりしている様子。
久米は、あれからも朋子と久代のアパートに来て、色々手伝ってくれた。一見、何だか|怪《あや》しげにすら見えるが、その実、|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》といってもいいくらいの真面目人間で、美幸と話しているのを聞くと、美幸が完全に久米を子分の|如《ごと》く従えているのであった。
安西エリ子がいないので、私用電話も気楽であった。
「もしもし、久米君?」
「あ、お姉さんですか」
久米は朋子のことを〈お姉さん〉と呼ぶのである。朋子としては、いささか|気《き》|恥《は》ずかしい。
「何か用なの?」
「実はちょっとご相談したいことがあって……」
「何かしら?」
「帰りに少しお話できませんか」
「ええ、いいわよ。じゃ、この近くでもいい?」
朋子は、この三船メールサービスに一番近い、|四《よつ》|谷《や》駅の近くの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》を教えて、
「――何か美幸のことなの?」
と|訊《き》いてみた。
「ええ、まあそうなんですが」
と、久米は、いつになく歯切れの悪い口調で言った。
ちょうどそこへ、トイレに行っていた峰千代子が|戻《もど》って来ると、
「安西の|魔《ま》|女《じょ》が帰って来るわよ」
と、朋子へ言った。
「――じゃ、久米君、後でね」
朋子は急いで受話器を置いた。安西エリ子が、近くのパン屋の|紙袋《かみぶくろ》をかかえて入って来る。朋子は、あわてて、やり残した伝票に取り組んだ。
「美幸が?」
朋子は思わず|訊《き》き|返《かえ》した。「大学へ行っていないんですって?」
「そうらしいんです」
と久米は、相変らずの、もっさりとした口調で答えた。
「じゃ、一体何をしてるのかしら、あの子」
「よく分らないんです。まあ|僕《ぼく》は学部が|違《ちが》うので、あまり|授業《じゅぎょう》でも会うことはないんですが、今日、たまたま昼に食堂で会いましてね、話をしてたんです。そしたら、|一《いっ》|緒《しょ》にいた|彼女《かのじょ》の友達の女の子が、どうして最近よく休むの、って|訊《き》いたんですよ」
「美幸は何て答えたの?」
「その友達をにらみつけましてね、『そんなに休んでないわよっ!』って……」
朋子は、久米の口調があまり美幸に|似《に》ているので、つい|笑《わら》い出してしまった。
「ごめんなさい。あなた|演《えん》|劇《げき》|部《ぶ》か何かなの?」
「そういうわけじゃありませんけど、つい何でもオーバーにやる|性《せい》|質《しつ》で」
と久米は照れくさそうに頭をかいた。
「美幸はそのことを説明した?」
「いいえ。ああ言われちゃうと、ちょっと、訊いてみようという気になれなくって……」
「それはそうね」
朋子は|微《ほほ》|笑《え》みながら|肯《うなず》いた。しかし、内心は不安である。美幸は大学を休んで何をやっているのだろう?
「心配なんですよ、彼女、勝気だから」
と、久米が言った。
「ええ、分ったわ。ともかく一度ゆっくり話してみるから。――ごめんなさいね、あなたにばかり|迷《めい》|惑《わく》をかけて」
「いいえ、とんでもないです」
久米はあわてて首を|振《ふ》って、「お母さんは――いかがですか?」
「ええ、このところ気候が不順でしょう。あまり具合よくないみたい。でも、|寝《ね》|込《こ》んではいないけど」
「気を付けて下さい。何か買物でもあれば行きますよ」
「ありがとう。親切ね、あなたは」
と朋子は言った。
全く、最近には|珍《めずら》しい、よく出来た|若《わか》|者《もの》である。
「学生なんて、どうせ|暇《ひま》ですから」
と久米は|笑《わら》った。
「あら――」
朋子はふと、店の|奥《おく》の方へ目を向けて、|呟《つぶや》いた。
「|誰《だれ》か知っている人でも?」
「ええ、ちょっと――会社の人が」
そこには意外な人物が|座《すわ》っていた。安西エリ子である。他の人間が仕事をし残して帰るとブツブツ|文《もん》|句《く》を言うのだが、自分は用があるとなれば五時になると同時に席から消えてなくなる。
今日も|素《す》|早《ばや》くいなくなったので、朋子はずっと後に出て来たのだが――。
もちろん、ここは駅の近くだし、社員の|誰《だれ》かがここへ入っても、おかしなことはない。しかし、安西エリ子が、見たことのない|男《だん》|性《せい》といとも親しげに話をしているのは、やはり|奇妙《きみょう》な風景だった。
安西エリ子は三船社長の愛人であり、だからこそ、あの|事《じ》|務《む》|所《しょ》で、女王然として|振《ふる》|舞《ま》っていられるのだ。しかし、今一緒にいるのは、四十前後の、サラリーマンらしくない、ジャンパー|姿《すがた》の男で、話の様子や|雰《ふん》|囲《い》|気《き》は、どう見ても、二人がただの知人以上のものであることを物語っていた。
「出ましょうよ」
と、朋子は久米を|促《うなが》した。
安西エリ子に気付かれない内に出て行きたかったのである。別に朋子は悪いことをしているわけではないのだが。
朋子と久米は立って、レジの方へ行った。運悪く、安西エリ子もほとんど同時に席を立っていたのである。
|支《し》|払《はら》いをしていた朋子は、ふと店の中へ顔を向けて、やって来る安西エリ子と目が合ってしまった。
「あら――」
と安西エリ子が言った。
朋子は|黙《だま》って|会釈《えしゃく》すると、早々に店を出た。足早に歩き出す朋子をあわてて追いかけながら、久米が、
「どうしたんですか?」
とびっくりしたように|訊《き》いた。
「あんまり会いたくない人だったの」
「すみません、どうも」
「どうして久米さんが|謝《あやま》るの?」
「さあ……」
と久米が首をひねる。
朋子は|笑《わら》いをかみ殺した。
しかし、今の安西エリ子の顔――一種の、|鋭《するど》い|敵《てき》|意《い》を感じさせる顔が、朋子の目に焼き付くように残っていた。
四谷から新宿へ出て、デパートの地下で夕食のおかずを|買《か》い|込《こ》む。
料理もしないではないのだが、出来たおかずを買った方が安いし、手間も|省《はぶ》ける。母は|疲《つか》れやすくなって、|寝《ね》ていることが多かった。
一度、|精《せい》|密《みつ》|検《けん》|査《さ》を受けさせなくてはならない、と朋子はずっと考えていたのだが、毎日の生活に追われて、たちまち日は|過《す》ぎて行くのだった。
この時間、食料品売場は、ひどく|混《こん》|雑《ざつ》する。|共《とも》|稼《かせ》ぎの人、一人住いのOLなどが、みんなこの時間に集中するからだ。買物をするのにも、いい|加《か》|減《げん》疲れる。
やっと買物を終えて、駅へと|戻《もど》った。ここからはバスでもいいのだが、せっかく定期があるのだから、電車で帰ることにする。
一つ乗って、大久保駅で|降《お》りる。――|雑《ざつ》|然《ぜん》と、家がひしめき合っている駅の近くを|抜《ぬ》けて、約五分。〈|清流荘《せいりゅうそう》〉というのが、朋子と母の住んでいるアパートである。
大分古ぼけてはいるが、|造《つく》りは|割《わり》|合《あい》にしっかりしている。二階建で、上下に各七戸の部屋があり、朋子たちの部屋は一階の|奥《おく》、一〇七号室である。
「ただいま」
|鍵《かぎ》を開けて中へ入る。ヒヤリとした空気が顔を|撫《な》でた。寒い。
「お母さん?」
ストーブをつけていないのだろうか? この部屋は、|特《とく》に冬になると陽当りが悪くなって、寒いので、もう一週間ほど前から、石油ストーブを使っていたのだ。
「お母さん、どこ?」
明りは|点《つ》いている。|玄《げん》|関《かん》を上ると、すぐに台所で、そのわきに四|畳半《じょうはん》、奥に六畳間。他に|風《ふ》|呂《ろ》とトイレ。それだけの|典《てん》|型《けい》|的《てき》なアパートの造りだ。
六畳の|襖《ふすま》を開けてみる。明りは点いていたが、|布《ふ》|団《とん》に母の|姿《すがた》はなかった。たった今、布団から出て行った、というように、かけ布団がめくれている。
「どこへ行ったのかしら?」
と朋子は|呟《つぶや》いた。
|窓《まど》のカーテンが開けたままで、|洗《せん》|濯《たく》|物《もの》も外に出ている。冷え切ってしまっているだろう。
朋子は、あわてて窓を開け、洗濯物を|取《と》り|込《こ》んだ。窓を|閉《し》め、カーテンを引く。
「|根《ね》|津《づ》さんの所かしら……」
と、朋子は|独《ひと》り|言《ごと》を言った。
二階に住んでいる人で、ちょうど|久《ひさ》|代《よ》と同じくらいの|年《ねん》|齢《れい》なので時々、行き来しておしゃべりをしている。
母親にも友人が必要だと思っていた朋子はそれを喜んでいた。
ストーブに火を|点《つ》ける。くさい|油《ゆ》|煙《えん》が少し出て、火がゆっくりと回る。
朋子は電話をかけた。
「――根津さんですか?――村山です、どうも。――あの、母はお|邪《じゃ》|魔《ま》しておりませんでしょうか。――そうですか。――いえ、|別《べつ》にご心配いただくことはないと思います。――はい、どうも」
受話器を|戻《もど》す。おかしい。どこへ出かけたのか。
朋子は|玄《げん》|関《かん》へ|戻《もど》ってみた。母のサンダルがそのままある。
ふっと、朋子の顔から血の気が引いた。トイレへ|駆《か》け|寄《よ》り、ドアを開けた。
母は、うずくまるように、|狭《せま》いトイレの|床《ゆか》に|倒《たお》れていた。
2
「――はい、そうです。母が発作を起こして|倒《たお》れましたので。――ええ、少し|付《つ》き|添《そ》っていませんと――」
朋子は受話器の向うの、安西エリ子の顔を思い|浮《う》かべていた。
「急に何日も休まれちゃ|困《こま》るじゃないの。仕事はどうするのよ」
「はあ……。どうする、とおっしゃられても……」
「仕方ないわね。ともかくできるだけ早く出て来てよ」
「はい、そうします。よろしく……」
電話に当っても仕方ないと思いつつ、つい受話器を戻す手は|荒《あら》っぽくなった。あれでも人間の|情《じょう》があるのだろうか!
「村山さん」
|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》に|呼《よ》ばれて、朋子は|駆《か》け|出《だ》した。
「村山です」
「あ、どうぞ、その|長《なが》|椅《い》|子《す》で待っててね。今先生がみえるから」
病院の朝。
朋子は入院というものを|経《けい》|験《けん》したことがない。昨日、救急車で、母に付き添ってこの病院へやって来たときも、何か、ただ|薄《うす》|暗《ぐら》い、|陰《いん》|気《き》な所だな、と思っただけだった。
よく、映画やTVでは、救急車で病人が|運《はこ》び|込《こ》まれると、|医《い》|師《し》や看護婦があわただしく|駆《か》け回って|処《しょ》|置《ち》をするものだが、|実《じっ》|際《さい》は|至《いた》ってあっさりとしたもので、はた目にはそう急いでいるようにも見えない。朋子は|苛《いら》|立《だ》って、つい医師をにらみつけたりしたのだが、冷静になって考えてみると、それも当然のことなのだと分って来る。
医師や看護婦にとっては、それが仕事なのだ。他にも|患《かん》|者《じゃ》は何百人もいる。一人一人に|精《せい》|魂《こん》を|傾《かたむ》けていたら、自分たちの|神《しん》|経《けい》がもたないだろう。
久代は、この病院へ、九時|頃《ごろ》になって、やっと運び込まれた。救急車は|割《わり》|合《あい》にすぐ来てくれたのだが、病院をどこにするか、なかなか決まらなかったのである。
そして今、朝の九時十五分。
丸十二時間たったわけだ。――病院も、外来の患者で|騒《さわ》がしくなり始めた。
「村山さんですね」
くたびれた白衣を着て、|髪《かみ》をぼさぼさにした|若《わか》い|医《い》|師《し》が声をかけて来た。「入って下さい」
まだ患者のいない|診《しん》|察《さつ》|室《しつ》へ入ると、その医師は、|眠《ねむ》そうに|欠伸《あくび》をして目をこすった。
「まあ|座《すわ》って下さい……。患者は、お母さん?」
「そうです」
「前から悪かったんですか、|心《しん》|臓《ぞう》?」
「はい」
「うーん、正直に言ってねえ……」
医師はカルテを|眺《なが》めながら、「大分弱ってますよ」
「|危《あぶ》ないんでしょうか?」
「ずっと入院していないとね。今度|自《じ》|宅《たく》で発作でも起こしたら間に合いませんよ」
朋子は、周囲の空気が、急に冷たくなったような気がした。
「今、母は……」
「今は眠ってます。ちょっと落ち着きましたからね。すぐにどうこうということはないでしょう。しかし、何といっても、こればかりはね」
「分りました。――入院の手続を取っていただけますか」
「|窓《まど》|口《ぐち》へ行って下さい。それから、どなたか|付《つ》き|添《そ》っていられる方は?」
「妹が学生ですので」
「お父さんは?」
「あの……|別居中《べっきょちゅう》です」
と、朋子は、ちょっと|迷《まよ》ってから言った。
「そうですか」
医師は大して関心のない様子で、「じゃ、まあそんなとこです」
と立ち上った。
|素《そ》っ|気《け》ない、|事《じ》|務《む》|的《てき》な言い方は、|却《かえ》って朋子にはありがたかった。これが|深《しん》|刻《こく》ぶって言われたらやり切れないだろう。
窓口へ行くと、|昼《ひる》|過《す》ぎに来てくれと言われて、ともかく入院の|仕《し》|度《たく》をして来るようにと|勧《すす》められた。そうだ。ともかく美幸に|連《れん》|絡《らく》しなくてはならない。
昨夜も下宿へ電話したのだが、帰っていなかった。
「――村山美幸をお願いします。姉ですが」
下宿といっても、学生アパートに近い|造《つく》りで、管理人が置かれているのだ。
「もしもし」
|若《わか》い女の声がした。美幸ではない。
「あの――」
「美幸さんのお姉さんですか?」
「そうです」
「美幸さん、ゆうべ帰ってないんです」
「帰っていない?」
「このところ三日に一度ぐらい、こんなことがあって、心配してるんですけど……」
大学へ行かず、下宿にも帰らず、何をしているのだろう?
「分りました。もし|戻《もど》りましたらお伝え願いたいんですが……」
朋子は、母が急に|倒《たお》れたことと、病院の名と場所を言って、「すぐこっちへ来るように言って下さい」
と|頼《たの》んだ。
母のことで、美幸の方の心配事を|忘《わす》れていた。――朋子は、急に、昨夜|一《いっ》|睡《すい》もしなかった|疲《つか》れが|押《お》し|寄《よ》せて来るのを感じた。
しかし、ともかくアパートへ|戻《もど》って|仕《し》|度《たく》をして来なくてはならない。
病院を出て、初めて、まぶしいほどの青空だと知った。
病院の中は、まるでいつも|厚《あつ》い雲の下のように暗い。――少しめまいがした。
少し休もう、と思った。
近くの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》に入って、コーヒーを飲んだ。胃が|痛《いた》んだが、目はさめて来た。
母の入院。いつかは、と|覚《かく》|悟《ご》していないではなかったが、こんなに|突《とつ》|然《ぜん》やって来るとは思わなかった。
入院費用、そして|治療費《ちりょうひ》。美幸が付きっきりということになれば、美幸のアルバイトの分もなくなることになるのだ。
朋子の、三船メールサービスの|給与《きゅうよ》だけでは、不足するのは目に見えていた。
|誰《だれ》か、ほんのしばらくでも、お金を都合してくれる人はいないだろうか?
しばらく、朋子は|考《かんが》え|込《こ》んでいたが、いい考えは|浮《う》かばなかった。
「ともかく、入院が先だわ」
と、朋子は自分へ言い聞かせて立ち上った。
アパートの近くまでやって来ると、向うから、大急ぎでやって来る久米と出くわした。
「久米さん! どうしてここに?」
「あ、お姉さん! よかった。――いや、救急車でお母さんが運ばれたと近所の人に聞いて、びっくりして……」
「|一《いち》|応《おう》、今は持ち直してるけど、入院しなくちゃならないの」
「大変ですね」
「その|仕《し》|度《たく》で|戻《もど》って来たんだけど……あなたは?」
「美幸さんを送って来たんです」
朋子は|戸《と》|惑《まど》って、
「美幸……あなたと|一《いっ》|緒《しょ》だったの?」
「それが、大変なんです、|酔《よ》っ|払《ぱら》って」
「酔っ払って?」
朋子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「ともかく来て下さい」
久米は先に立って歩き出した。
アパートの部屋に入って、朋子は目を|疑《うたが》った。真っ赤なワンピース――それもけばけばしい色の、だ――に、朋子が見たこともない|濃《こ》い|化粧《けしょう》をした美幸が、酒の|匂《にお》いを|漂《ただよ》わせて、|眠《ねむ》りこけている。
「美幸は――」
「バーで働いてたんです」
久米はため息をついて、「全く、|馬《ば》|鹿《か》なことをして……。言ってくれりゃ|僕《ぼく》がホストクラブにでも|勤《つと》めたのに」
久米はいつも、どこまで本気なのか分らない男なのだ。
「|酔《よ》い|潰《つぶ》れて……どうしたの?」
「いや、僕の学部の|先《せん》|輩《ぱい》がね、教えてくれたんです。お前の|彼女《かのじょ》にそっくりなのがいるぞって。まさか、とは思いましたが、ゆうべ行ってみると、彼女、客から、どっちがアルコールに強いか|挑《いど》まれて、|飲《の》み|比《くら》べをやってたんです」
「|馬《ば》|鹿《か》!」
「行ったら、もうぶっ|倒《たお》れる|寸《すん》|前《ぜん》で。強引に連れ出して来たんです。参りましたよ、外でも|暴《あば》れてね」
「|迷《めい》|惑《わく》かけてごめんなさい。――悪いけど、迷惑ついでに、もう一つお願いできる?」
「何ですか」
「美幸をお|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》へ運んでほしいの。湯船に一昨日の水が入ってるから、そこへ放り込んでちょうだい」
久米は目をパチクリさせて、
「僕がですか?――殺されちゃいますよ!」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。私に言われたと言って」
「はあ……」
久米はちょっと頭をかいて、「面白そうですけど……やっぱりためらっちゃうなあ」
と言いながら、美幸をかかえ上げた。
朋子が、タンスを開けて、母の|着《き》|替《が》えを出していると、|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》から、|派《は》|手《で》な水音と悲鳴が聞こえて来た。朋子は思わず|笑《わら》いをかみ殺した。不思議に|涙《なみだ》が|瞼《まぶた》を熱くしていた。
その夜、病院からアパートへ|戻《もど》った朋子はそのまま|畳《たたみ》に横になると、たちまち|眠《ねむ》り|込《こ》んでしまった。目が覚めたのは十一時|頃《ごろ》で、電話がいつからか鳴り続けていた。
母の|容《よう》|態《だい》でも――。朋子は電話に飛びついた。
「村山さん? |私《わたし》、峰千代子」
「あ……どうも。ごめんなさい、|疲《つか》れて眠っていたものだから」
「お母さん、|大丈夫《だいじょうぶ》?」
「入院したの。妹がついてるわ」
「そう。大変ねえ」
「会社の方、どう?」
「それが……」
峰千代子は、言い|淀《よど》んだ。
「何かあったの?」
「ねえ、ちょっと|訊《き》いていい?」
「何を?」
「あなたのお父さんって、銀行のお金を|盗《ぬす》んで|逃《に》げたの?」
朋子は|一瞬《いっしゅん》、返事に|詰《つ》まった。
「|誰《だれ》がそんなこと……」
「安西さんよ、決まってるじゃないの」
安西エリ子が……。どこで知ったのだろう?
「――ええ、その通りよ。別に|隠《かく》していたわけじゃないんだけど」
「苦労したでしょうね」
思いがけない千代子の言葉に、朋子は、ちょっと|胸《むね》が熱くなった。
「――別に、私はそんなこと何とも思わないわよ」
と千代子は続けて、「でも、あの女がね、社長へしゃべったみたい」
それはそうだろう。朋子は受話器を|握《にぎ》る手に|汗《あせ》がにじむのを感じた。
「それで……何か……」
「社長が、あなたには|辞《や》めてもらうって……」
朋子は言葉が出なかった。――そんなことが……。
「ひどいわ、そんな……」
「私もそう思うわ。親の|罪《つみ》と|子《こ》|供《ども》は関係ないじゃない? でも、社長やあの女に言わせると、いつ会社の金を|持《も》ち|逃《に》げされるかもしれないって……。そのことをあなたへ言えって、私に……」
安西エリ子は、以前から、そのことを知っていたのかもしれない。そして昨日、男と会っている所を見られてしまった安西エリ子が、朋子を追い出そうとしたのではないか……。
「それでね、社長の言うには」
千代子は言いにくそうに続けた。「もう出社しなくていいってことなの。|退職金《たいしょくきん》は送るからって。|私《し》|物《ぶつ》も何かあれば小包で送るって言ってたわ」
朋子はしばらく|黙《だま》っていた。――真夜中になって、部屋は冷え切っていた。その冷たさが、|肌《はだ》にしみ込んで来る。
「――もしもし、村山さん」
千代子が間を置いて言った。「聞いてる?」
「ええ」
「私のこと、|恨《うら》まないでね」
「分ってるわ。でも……はい、そうですかって|引《ひ》き|退《さ》がれないわ、私だって」
「分るけど――あの女と社長を相手に、どう言うつもり?」
千代子の言葉が、朋子の中に|燃《も》え|上《あが》った火を、急速に冷やして行った。――そうだ。今は、あんな連中と|無《む》|用《よう》な|言《い》い|争《あらそ》いをしているときではない。
話をしたからといって、向うが意を|翻《ひるがえ》すとは思えない。こうなれば、|逆《ぎゃく》に、男と会っていたことを種に、安西エリ子を|脅《おど》してやろうかという気にもなりかけたが、そこまで落ちてしまいたくもなかった。
「分ったわ。あなたの言う通りね」
と、朋子はいつもの平静な口調に|戻《もど》って行った。
「本当に、力になれるといいんだけど……」
千代子がホッとしたように言った。
「いいの。気持だけで|充分《じゅうぶん》だわ。どうもありがとう」
「じゃ、また電話するわね」
早々に、千代子は電話を切ってしまった。|可哀《かわい》そうに。よほど安西エリ子に脅かされているらしい。|誰《だれ》しも、自分の生活というものがあるのだ。
朋子は、部屋の寒さに気付いて、あわてて石油ストーブの火を|点《つ》けた。体が冷え切っている。
他人に|同情《どうじょう》していられる身分ではない。自分が、ともかく|職《しょく》を|捜《さが》さねばならないのだ。
入院費用、生活費、美幸の学費……。
朋子は、美幸に大学をやめさせなくてはならないかもしれない、と思った。
せっかくここまで来たのだ。何とか卒業させてやりたいが、当の美幸自身が、姉一人に苦労を負わせて大学へ行くことをいやがっている。――その気持も、よく分るのだ。
三十分近く|座《すわ》っていると、やっと体が|暖《あたた》まって来た。
「さあ、|頑《がん》|張《ば》って」
口に出して、そう言ってみた。|落《お》ち|込《こ》んでいる|暇《ひま》はないのだ。母がいる。何とかしなくてはならない。この自分が、何とかする他はないのだ。
|風《ふ》|呂《ろ》の火を|点《つ》けておいて、朋子は新聞の求人広告を広げた。
「――お母さん、どう?」
朋子は|果《くだ》|物《もの》の|袋《ふくろ》を手に、ベッドの方へ歩いて行った。
「もう、大分いいよ」
久代はベッドに少し体を起こして|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「|寝《ね》ててよ。――美幸は?」
「お湯を|沸《わ》かしに行ってるよ。ねえ、朋子」
と、久代が少し声を低くした。
「何なの?」
朋子は、ちょっとヒヤリとした。会社をクビになった話を、もう母が聞きつけたのかと思ったのだ。昨夜、新聞で目をつけた|就職先《しゅうしょくさき》を二つ回ってから、|一《いち》|応《おう》そのことを美幸に教えて、母へは|黙《だま》っておくように|言《い》い|含《ふく》めておこうと病院へ回って来たのだ。
「入院のお金のことだけど――」
と久代が言った。
「それなら心配しないで」
と朋子は軽い口調で言った。
「どこで都合して来たの? こんなに早く」
「え?」
朋子はちょっと|戸《と》|惑《まど》った。「それは――会社でね、借りたのよ。|大丈夫《だいじょうぶ》、心配しなくても」
「それならいいけど……。お前の立場があるだろうからと思ってね」
「お母さんは心配しないで休んでてくれりゃいいのよ」
と、朋子はコートを|脱《ぬ》いで言った。
「お姉さん」
と、美幸が小走りにやって来た。
「走っちゃだめじゃないの。――もう頭|痛《いた》くない?」
「いつまでも|酔《よ》っ|払《ぱら》ってないわよ。ね、リンゴ、むいて来ようか」
「やってあげる。あんたがむくと皮が一センチぐらいになるんだから」
と、朋子は|笑《え》|顔《がお》で美幸を|促《うなが》した。
「――お母さん、|今《け》|朝《さ》、ちょっと具合悪かったのよ」
|廊《ろう》|下《か》へ出ると、美幸が|真《ま》|顔《がお》になって言った。
「それで?」
「大したことなくて|済《す》んだけど……」
「悪いわね、学校あるのに」
「学校じゃお金|稼《かせ》げないものね」
「本当だわ」
朋子はつい|笑《わら》ってしまった。
給湯室でリンゴをむきながら、
「入院の費用のこと、お母さんに何か言ったの?」
と朋子は|訊《き》いた。
「お姉さん、よくお金あったね」
「お金?――|私《わたし》、まだ|払《はら》い|込《こ》んでいないのよ」
「そんな……。だって|窓《まど》|口《ぐち》で訊いたのよ。全部払ってあるって」
「まさか!――|誰《だれ》か、他人と|間《ま》|違《ちが》えてるんじゃないの?」
朋子は|驚《おどろ》いて言った。
「お姉さん、本当にまだ?」
「そうよ。だから今日、あわてて少しお金おろして来たんじゃない」
「変ねえ、だって|確《たし》かに入金してあるって……」
「このリンゴ、持って行って。ちょっと確かめて来る」
朋子は、会計の窓口へ行ってみた。――しかし、|実《じっ》|際《さい》に、久代の入院費用は、|充分《じゅうぶん》に先払いされてあったのだ。
これは一体どういうことなのだろう?
また明日来るから、と母へ言って、朋子は美幸と|共《とも》に病院の出口まで来た。
「――お姉さん、何考えてるの?」
朋子は美幸の顔を見た。
「たぶん、あなたと同じことよ」
少し間を置いて、美幸が言った。
「お父さんが……」
「まさか!」
朋子は強い口調で|遮《さえぎ》った。「どうしてあの人が|今《いま》|頃《ごろ》?――|冗談《じょうだん》じゃないわ!」
美幸は、姉が|珍《めずら》しく声を|震《ふる》わせているのに気付いたのか、
「そんなに|興《こう》|奮《ふん》しないでよ」
「そうね……」
朋子は深く|呼吸《こきゅう》をして、「どうだっていいわね、そんなこと」
外は、もう暗くなりかけていた。今日は他の所へ回ることはできない。
「明日は会社の帰りに来る?」
「あ、そうだわ。会社へは電話しないで」
「どうして?」
「クビになったのよ」
そう言って、朋子はちょっと|笑《わら》った。
「お母さん、どう?」
アパートへ入ると、|隣《となり》の部屋の|奥《おく》さんに出会った。
「どうもお|騒《さわ》がせしました。|一《いち》|応《おう》今のところは」
「大変ね。あ、そうだ。|留《る》|守《す》のときにね」
「何か?」
「こういう人がみえたわ。お帰りになったら|渡《わた》してくれと言って」
その|名《めい》|刺《し》には、〈|伊《い》|藤《とう》|総《そう》|合《ごう》|研《けん》|究所《きゅうじょ》〉とあった。名前は朋子も知っている。|世論調査《せろんちょうさ》をはじめ、マーケット ・ リサーチを|請《う》け|負《お》っている、かなり有名な会社である。
〈|庶《しょ》|務《む》課長 |大久保等《おおくぼひとし》〉と名前があって、ボールペンで、〈明日十時に来社下さい〉とあった。
「なかなかしゃきっとした|紳《しん》|士《し》だったわよ」
「そうですか。知らない人ですけど……。ともかくいただいておきます」
朋子は部屋へ|戻《もど》った。上りかけると、電話が鳴り出した。――電話の音が、これほど|怖《こわ》いものだとは、朋子は思ったこともなかった。母に何か、という思いで、|反《はん》|射《しゃ》|的《てき》に身がすくむ気がする。
「村山です」
「村山――朋子さんというのは」
「|私《わたし》ですが」
よく通る、男の声だった。病院ではないようだ。
「伊藤総合研究所の大久保といいます」
「あ――どうも」
朋子はホッとして|座《すわ》り|込《こ》んだ。
大久保の話し方は|丁《てい》|寧《ねい》で、耳に|快《こころよ》かった。――話の|内《ない》|容《よう》は、しかし、朋子をびっくりさせた。
「そちらで働かせていただけるんですか?」
|夢《ゆめ》ではないか、と朋子は思った。
「データ|分《ぶん》|析《せき》のオペレーターに欠員ができましてね、あなたを|推《すい》|薦《せん》する方があったものですから……」
「それはもう――喜んで」
「それは良かった。では明日十時に社の方へ来て下さい。場所はお分りですか?」
「はい、|存《ぞん》じております。あの――」
「何ですか?」
「その、私をご|推《すい》|薦《せん》下さった方というのは、どなたでしょう?」
「さあ、私もよく知りません。上から聞かされただけでしてね」
「そうですか……」
「ああ、それから――」
と、大久保は付け加えて、「私はあなたのお父さんのこともよく|存《ぞん》じています。その辺で、お|気《き》|遣《づか》いになることはありませんよ。安心していらして下さい」
「ありがとうございます」
電話を切ってからも、しばらく朋子は体の中に熱くほてるものがあって、少しも寒さを感じなかった。
父ではない。――父なら、たとえ入院の費用をこっそり|払《はら》いに来ることはあっても、朋子の|就職《しゅうしょく》の|面《めん》|倒《どう》までみてはくれない。父が推薦したからといって、|受《う》け|容《い》れてくれる|企業《きぎょう》などあるはずもないだろう。
それでは|誰《だれ》なのか?
いくら考えても、思い当らなかった。――入院費用を払って行った人物と、伊藤|総《そう》|合《ごう》|研《けん》|究所《きゅうじょ》へ、朋子を推薦したのは、おそらく同じ人物だろう。
|偶《ぐう》|然《ぜん》であるはずがない。――しかし、それは誰なのか?
だが、それが誰であれ、今の朋子には救いの神に等しかった。それを|拒《こば》む気は|毛《もう》|頭《とう》ない。
朋子は、ストーブの火を|点《つ》けて、急に体が軽くなったように、飛びはねる足取りで、夕食の|仕《し》|度《たく》を始めた。
3
「――どうですか、仕事は?」
三時の|休憩《きゅうけい》に、じっと目を|閉《と》じていると、大久保が声をかけて来た。
「ええ、まだなかなか|慣《な》れなくて……」
|朋《とも》|子《こ》は、目の前の、キーの列と、スコープに|映《うつ》し出されるディスプレイを見ながら言った。
「当り前ですよ。そう最初から何でも出来はしません。――そんなに|根《こん》をつめなくてもいいんですよ」
「ありがとうございます」
大久保は、電話で|想《そう》|像《ぞう》したよりも、ずっと|老《ふ》けていた。|髪《かみ》も大分白くなって、人の|好《よ》い|年《とし》|寄《よ》り、という印象を|与《あた》えた。
|実《じっ》|際《さい》、温か味のある|人《ひと》|柄《がら》のようで、このオペレーター室の女子社員たちも、一人として大久保の悪口を言う者はなかった。
広々とした、近代的な明るいオフィスは、朋子の心を|和《なご》ませた。仕事をしていても、|精《せい》|神《しん》|的《てき》な|疲《ひ》|労《ろう》はずっと小さい。
「朋子さん。コーヒーどう?」
と、席を|並《なら》べている|谷《たに》|崎《ざき》|由《ゆ》|香《か》|利《り》が声をかけて来た。
「あ、すみません、|私《わたし》がやります」
「いいの。|当《とう》|番《ばん》|制《せい》で、今週は私。来週はお願いするから」
|職場《しょくば》自体が|製造業《せいぞうぎょう》や|販《はん》|売《ばい》|業《ぎょう》ではないので、いくらかのんびりした|雰《ふん》|囲《い》|気《き》がある。
オペレーター室は、|一《いち》|応《おう》|庶《しょ》|務《む》|課《か》の下に入っているが、|独《どく》|立《りつ》した部屋になっていて、それだけ気も楽だった。
「――今度のボーナス、|使《つか》い|途《みち》、決めた?」
|女《じょ》|性《せい》|同《どう》|士《し》の話は、どこも|似《に》たようなものである。
「旅行。ハワイに行くの」
「いいわね。私はローンの|払《はら》いでパーだわ」
「あら、がっちり|貯《た》めてるくせに」
「あれは銀行がうるさいからよ」
コーヒーを飲んでいた朋子は、ふと、この会社の名前を、どこで聞いたのか、思い出した。
父の話で知っていたのだ。父のいた銀行が、ここの取引銀行だったからである。
では、|推《すい》|薦《せん》してくれたのは、やはり父の知り合いか|誰《だれ》かだろうか?
朋子は、その内に知れるだろう、と思った。|無《む》|理《り》にせんさくして、せっかくの職場を失いたくはない。
そして、一週間がたちまちの内に|過《す》ぎた。その日、五時のチャイムが鳴って、朋子が帰り|仕《じ》|度《たく》をしていると、
「村山さん」
と、大久保がやって来た。
「はい」
「|申《もう》し|訳《わけ》ないが、ちょっと付き合ってもらえませんか」
「はい……」
病院へ行くつもりだったが、このところ、|小康状態《しょうこうじょうたい》を保っているし、一日ぐらい|大丈夫《だいじょうぶ》だろう、と思った。それに八時までは面会できる。
大久保には世話になっているのだ。朋子は、病院の|美《み》|幸《ゆき》へ電話してから、会社を出た。
大久保は表でタクシーを|停《と》めて待っていた。
「すぐそこですがね。――まあ、どうぞ」
と、朋子を先に乗せる。
タクシーは、|混《こ》んだ道をしばらくノロノロと進んだ。
「――どこへ行くんですか?」
車の中で、朋子は|訊《き》いた。
「|銀《ぎん》|座《ざ》の|日《にっ》|航《こう》ホテルです。知っているでしょう」
と大久保は言った。
「ええ、何度か行ったことがあります。それで……よろしければ、ご用というのをうかがわせていただけませんか」
まさか大久保に|妙《みょう》な|下心《したごころ》があるとは、朋子も心配しなかったが、どういう用事かまるで分らないのでは、やはり落ち着かなかった。
「実は、あなたを|推《すい》|薦《せん》した方が、あなたに会いたがっていましてね。私はそれの案内役というわけです」
大久保は、ちょっと照れたように|笑《わら》って、「私はホテルまで行って失礼しますから」
と付け加えた。
朋子は、どうして大久保が、推薦してくれた人の名を|秘《ひ》|密《みつ》めかしているのか、よく|理《り》|解《かい》できなかったが、ともかく、その当人に会えるのは|嬉《うれ》しかった。
入院費用のことも|確《たし》かめられる。それをはっきりさせなくては、朋子としても、気持がすっきりしなかったのだ。
まさか――父ではあるまい。父ならば、そんな目立つ所にやっては来ないだろうし……。
「――ああ、やっと着いた。さ、どうぞ」
大久保は、まるで朋子をお客様|扱《あつか》いしている。朋子は何となくおかしくなった。
本当なら|絶《ぜつ》|望《ぼう》するか、|緊張《きんちょう》しなくてはならないときに、何となく楽天的になってしまうのが、朋子の|癖《くせ》である。おっとりと育ったせいもあるかもしれない。
中へ入って、|喫《きっ》|茶《さ》|室《しつ》の入口に立つと、大久保が先に入って行った。
朋子は、|所《しょ》|在《ざい》なく立っていたが……。
「|今《こん》|晩《ばん》は」
|若《わか》|々《わか》しい声に顔を上げた朋子は、思いがけない顔に出会って、言葉を失った。
ピアノの|生《なま》|演《えん》|奏《そう》が終って、|拍《はく》|手《しゅ》が起こった。――後に、低くムード音楽が流れて、ナイフとフォークの音が|混《ま》じり合った。
「あまり口をきかないね」
と|田《た》|沢《ざわ》|和《かず》|彦《ひこ》が言った。
「|別《べつ》にそんなことは……」
と朋子は|言《い》い|淀《よど》んだ。
「|怒《おこ》ってるのかな」
「とんでもありません」
朋子は急いで言った。「何から何まで|面《めん》|倒《どう》をみていただいて……何とお礼を申し上げていいのか」
「そんな風に言われると|困《こま》るな」
と田沢和彦は|苦笑《くしょう》しながら言った。「|僕《ぼく》としては、|責《せき》|任《にん》を感じてるんだ、あなた方のことに」
「あなたが? 責任があるのは父ですわ。何もあなたには――」
「そりゃそうだ。でも、やっぱりああしないではいられなかった」
食事は、何となく進まなかった。――しばらくして、和彦が|訊《き》いた。
「お母さんの具合はどう?」
「おかげさまで今は少しいいようです。でも、やはりしばらく入院していなくてはならないとか――」
「それは大変だね」
「田沢さん、教えて下さい。どうして母の入院のことや、|私《わたし》が会社をクビになったことが分ったんですか?」
「ああ、それか。いや……あのアパートへ|引《ひっ》|越《こ》したことは調べて分ったんだけど、君を|訪《たず》ねて行くのはためらわれたし、といって放っておく気にもなれなくてね。結局アパートの人の一人に|頼《たの》んで、何かあったら僕へ知らせてくれと言っておいたんだ」
「まあ」
「会社のことは全くの|偶《ぐう》|然《ぜん》だよ。君の|勤《つと》めていた所のことは調べて分っていたが、どう考えても君に|相応《ふさわ》しいとは思えなかった。それで前からうちの支店と取引きがあって、父もよく知っている|伊《い》|藤《とう》|総《そう》|合《ごう》|研《けん》|究所《きゅうじょ》に、欠員が出来たら、よろしくと頼んでおいたのさ。たまたま同じ時に、欠員が生じた、というわけだ」
「じゃ、大久保課長とは……」
「あの人はもともとうちの銀行の人なんだ。父に|可愛《かわい》がってもらったので、僕の頼みも色々と聞いてくれる」
「そうでしたか……」
朋子はしばらく目を上げられなかった。
「ねえ、君がこれを|負《ふ》|担《たん》に思う必要はないんだよ。――本当なら、僕が名乗り出るなんて|卑怯《ひきょう》なやり口かもしれない。|恩《おん》を売っておいて、夕食を付き合えなんてね」
和彦はしばらくためらってから、続けた。「――正直言って、僕は君のことが|好《す》きなんだ」
朋子は|驚《おどろ》いて顔を上げた。いや、最初に和彦の目を見たときから、それは心の底では分っていたのだが、|認《みと》めるのは|怖《こわ》かったのだ。
「だから君を助けた。――理由は|単純《たんじゅん》さ」
和彦は手を広げて、「でも、だからといって君が僕を好きになる|義《ぎ》|務《む》はない。ただ……僕の気持は、知っておいてほしかった。だから今日、こうして|呼《よ》んだわけだ」
朋子はしばらく言葉が出なかった。食事は終って、コーヒーが出た。朋子はカップを取り上げた。手が細かく|震《ふる》えている。
「お父さんから|連《れん》|絡《らく》は?」
と和彦が|訊《き》いた。
朋子は|黙《だま》って首を|振《ふ》った。
「そうか。でも、君がそんなに苦労してることを知っていれば、|戻《もど》って来るんじゃないかなあ」
「もう父は死んだと思っています」
と朋子はきっぱり言って、「田沢さん。あなたのお気持は本当に|嬉《うれ》しいんですけど、もうこれで会わないようにして下さい」
と続けた。
一気に、一口で言った。和彦の顔が少しこわばった。
「君がもし、お父さんのことを気にしているのなら――」
「いいえ。それは関係ありません」
「じゃ、|誰《だれ》か|好《す》きな人がいるの?」
「はい」
「そうか。――それじゃ仕方ない」
和彦は気を取り直したように|微《ほほ》|笑《え》んだ。「それじゃ、今日はやけ酒だ」
朋子は、目をそらして、コーヒーをゆっくりと飲んだ……。
食事を終えると、和彦が送って行くからと言うのを、朋子は固く|断《ことわ》った。
「じゃ、タクシーで帰ってくれないか。それはいいだろう?」
と和彦は|折《お》れた。
「分りました」
朋子も、それまでは|拒《こば》めなかった。
ホテルの前でタクシーを拾って、朋子一人を乗せると、和彦は一万円|札《さつ》を|渡《わた》した。
「車代だ。――それじゃ、お母さんお大事にね」
「はい」
朋子はただそう言って、頭を下げた。
タクシーが走り出すと、朋子は、|座《ざ》|席《せき》にゆっくりと身をもたせかけて、目を|閉《と》じた。
色々な|感情《かんじょう》が|入《い》り|乱《みだ》れて、|入《い》れ|替《かわ》り、立ち替り、朋子を支配して行った。
どうして、田沢和彦の愛を受けなかったのだろう。――プライドか。いや、そんなものではなかった。
何かが、朋子の中に、しこりになって|凝固《ぎょうこ》したまま、つかえているようだった。
「――お|疲《つか》れですか」
タクシーの運転手が声をかけて来た。
「ええ……少し」
「おやすみになってていいですよ。近くに来たら起こしますから」
|珍《めずら》しく親切な運転手だった。
「どうもありがとう」
|眠《ねむ》いわけではなかったが、朋子は軽く目を|閉《と》じた。何だか、運転手に悪いような気がしたのだ。
考えてみれば、ホテルで食事をして、タクシーで帰るなどというぜいたくをするのは、|久《ひさ》しぶりだ。以前は、何気なくタクシーを|呼《よ》び、ハイヤーを借りて使っていたものだが、今は、とてもそんな|余《よ》|裕《ゆう》はない。
和彦と付き合っていれば、こんなぜいたくもできるかもしれない、と朋子は思って|微《ほほ》|笑《え》んだ。
――|馬《ば》|鹿《か》げたことだが、そのために和彦と付き合ってもいいような気がした。
しかし、やはりだめだ。和彦は|真《しん》|剣《けん》だった。それが朋子には|怖《こわ》い。
今は、|恋《こい》だの愛だのと言っていられる時ではないのだ。母の入院、|美《み》|幸《ゆき》の大学のこともある。
遊びなら?――ただの遊びとして付き合うのならどうだろう。
それが自分にできるとは、朋子には思えなかった。おそらくは、和彦にも……。
そして――|認《みと》めたくはなかったが、やはり父の|影《かげ》が、大きく二人の間に横たわっているのだった。おそらく、和彦は父親に何も知らせてはいまい。その点は|間《ま》|違《ちが》いない、と朋子は思った。
田沢が、|息子《むすこ》と、公金を|横領《おうりょう》して|逃《に》げた男――それもかつての部下――の|娘《むすめ》との|恋《こい》を|快《こころよ》く思うはずがなかった。和彦は、早くから|幹《かん》|部《ぶ》|候《こう》|補《ほ》|生《せい》の一人である。
朋子と付き合うことで、和彦はその|未《み》|来《らい》を|危《き》|険《けん》にさらしているのかもしれないのだ。
いけない。やはり、たとえ遊びとしても、和彦と会うことは危険だった。入院費を|払《はら》ってもらっただけでも、問題なのに、この上何かあれば、田沢の耳に入らないとも|限《かぎ》らないではないか。
もう和彦とは、これっきりでいなくては……。会社まで世話してもらって、その|好《こう》|意《い》に|甘《あま》えながら、虫のいい言い草かもしれないが、和彦のためだ。
いつしか、本当に朋子は浅い|眠《ねむ》りに落ちかけていた。
和彦の|笑《え》|顔《がお》が目の前にチラついた。いわゆる銀行員らしい|如《じょ》|才《さい》なさはなくて、その代り、持って生れたものとしか言えない|穏《おだ》やかさが|具《そな》わっている。だから、その笑顔も、|愛《あい》|想《そ》|笑《わら》いでもなく、ごく自然に人の心を|和《なご》ませるものだった。
朋子は、自分と和彦との生活の|映《えい》|像《ぞう》を思い|浮《う》かべた。明るい食堂での朝食と、|出勤風景《しゅっきんふうけい》と……。全く、TVのCMにあるような、|気《き》|恥《は》ずかしいくらいの、マイホーム像……。
|夢《ゆめ》の中では、しかし、それがまるで手を|伸《の》ばせば|届《とど》きそうな近さに感じられるのだった。
「――お客さん」
運転手の声で、ふっと目が覚める。
「あ……|眠《ねむ》っちゃったんだわ。ごめんなさい」
「この辺ですか?」
朋子はタクシーの外を見て、
「ええと……あ、そうだわ。あの信号から左へ入って下さい」と|指《し》|示《じ》した。
「はい。――ここですね」
「その先を右。――でも、いいわ。歩きます」
「いいですよ、ここなら|充分《じゅうぶん》入れる。この|奥《おく》ですね」
「ええ。すみませんね」
タクシーは、アパートの前へ|抜《ぬ》ける道へ入って行った。
暗い道で、あまり|夜《よる》|遅《おそ》くなると、ちょっと一人歩きはためらわれる道である。
目が、少しぼんやりしている。目が覚めていないのだろう。
朋子は目をこすった。――目を二、三度しばたたく。
タクシーのライトに、父の|姿《すがた》が|浮《う》かび上った。
光を浴びて、まぶしげに顔をそむけた。そして、タクシーはあっという間に、その|傍《そば》をすり|抜《ぬ》けてしまった。
朋子が|我《われ》に返ったのは、しばらくしてからだった。
「|停《と》めて!」
と|叫《さけ》ぶように言った。
「どうしました?」
「ちょっと待っていて! ここで」
朋子はバッグを中に残して、タクシーから出ると、夜道を|駆《か》け|戻《もど》った。
足音が、あたりに|響《ひび》いた。しばらく走って、朋子は足を止めた。もう、道は広い通りに近くなって、何本にも別れていた。
父らしい|姿《すがた》は、どこにもなかった。|喘《あえ》ぎつつ左右を見回してみたが、むだだった。
あれは|幻《まぼろし》だろうか? |一瞬《いっしゅん》の|錯《さっ》|覚《かく》だったのか?
朋子にも|確《かく》|信《しん》はなかった。だが、あまりにもはっきりと、父の顔が光に照らされて、その|映《えい》|像《ぞう》が、朋子の|脳《のう》|裏《り》に焼きついている。
もし、あれが幻でないとしたら……。父は帰って来たのだろうか?
朋子は、冷たい夜気を|激《はげ》しく|吸《す》い|込《こ》んで、|痛《いた》む|喉《のど》をさすりながら、タクシーの方へと歩いて行った……。
4
十一月に入って、寒さは|一《いち》|段《だん》と|厳《きび》しくなった。
雪こそなかったが、朝夕の|冷《ひ》え|込《こ》みは、ここ数年来のものとのことだった。
朝、|通《つう》|勤《きん》の電車に|揺《ゆ》られながら、母を入院させておいて良かった、と|朋《とも》|子《こ》は思っていた。当然、この寒さは|心《しん》|臓《ぞう》にはよくない。
その点、病院ならば、まず安心していられる。母の|容《よう》|態《だい》も、|一応小康《いちおうしょうこう》を保って、このところ発作のきざしは見えないようだった。
会社も楽しかったし、仕事も面白い。給料も、三船メールサービスに|比《くら》べるとずっと良かった。
|美《み》|幸《ゆき》は相変らず母に付きっきりで、時々|洗《せん》|濯《たく》|物《もの》を持ってアパートへやって来る。買物や何かには、|久《く》|米《め》をこき使っているらしかった。
|田《た》|沢《ざわ》|和《かず》|彦《ひこ》のことを、美幸にだけは話した。美幸は、
「いいじゃない! あっちはお金持なんだからさ、せいぜい出させてやりゃ」
と例の調子だったが、朋子としては、そうもいかない。
だが、あの後、和彦からは何の|連《れん》|絡《らく》もなかった。そして父からも……。
父を見かけたことは、|誰《だれ》にも話さなかった。|錯《さっ》|覚《かく》かもしれないことで、母や美幸を|混《こん》|乱《らん》させたくはない。
しかし、不思議なことに、日がたつにつれて、あれは本当に父だったのに|違《ちが》いない、という|確《かく》|信《しん》が|湧《わ》いて来た。そして、本当に父だったとすれば、なおさら、母の耳に入れてはならない、と思った。
「――おはようございます」
会社へ着いて、|挨《あい》|拶《さつ》を交わしながら席につく。すぐに、電話が鳴った。
「受付にお客様です」
「はい」
誰だろう? 朋子は受付に急いだ。
男が二人、立っていた。
「村山ですが……」
「|警視庁《けいしちょう》の者です」
男の一人が、低い声で言った。「お仕事中|申《もう》し|訳《わけ》ありませんが、ちょっとお話が……」
「はい」
三人は|廊《ろう》|下《か》へ出た。
「父のことでしょうか?」
「そうです。何か|連《れん》|絡《らく》はありましたか?」
「いいえ」
「そうですか」
|刑《けい》|事《じ》は、あまり朋子の言葉を信用していないようだった。親をかばうのは当然だと思っているのだろう。
「田沢さんという方から|通《つう》|報《ほう》がありましてね」
「田沢……。|副《ふく》|頭《とう》|取《どり》の田沢さんですか?」
「そうです。お父さんから電話があったというんです」
「父から……」
と、朋子は|呟《つぶや》くように言って、「で、父は何と?」
「あなたやご家族のことをあれこれ|訊《き》いたそうです。やはり気にかかるんでしょうね」
「今、父はどこに?」
「東京へ|戻《もど》っているようです」
東京に。では、やはり、あれは父だったのか……。
「で、あなたの所へも連絡が行くかもしれないと思ってうかがったのです」
「残念ですけど、今のところは何も」
「そうですか。まあ、あなたも、実の父親ですから、かばってやりたいと思うでしょうが、ともかくもし話すなり、会うなりしたら、ぜひ自首するように|勧《すす》めて下さい。それが本人のためなんです」
「分りました」
「もし、何かありましたらここへ」
と、電話番号のメモを|渡《わた》し、刑事は引き上げて行った。
席に|戻《もど》ってしばらくは、仕事が手につかなかった。父のことなど、どうでもいい。もう|忘《わす》れた、と思っても、やはり忘れられるものではないのだろう……。
電話が鳴った。
「はい」
「外線からです」
|交《こう》|換《かん》|手《しゅ》が電話をつなぐ音。
「もしもし、村山です」と朋子は言ったが、向うは一向に出る|気《け》|配《はい》がなかった。
「もしもし?――どちら様ですか?」
「朋子か」
父の声がした。朋子は受話器を|握《にぎ》り|直《なお》した。
「え、ええ……そうです」
「|私《わたし》の声が分るか?」
「はい」
「よかった。――母さんは入院したそうだな」
「そうなんです」
「具合はどうなんだ?」
「今は持ち直していますけど、いつ発作が起きるか分らないそうです」
朋子は、できるだけ|事《じ》|務《む》|的《てき》な調子でしゃべっていた。
「お前は|大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「ええ、元気にやっています。美幸は母についています」
「そうか。苦労かけて|済《す》まない」
初めて、朋子の言葉が|詰《つ》まった。
「――ご用はそれだけですか」
と言った。
「お前に会いたい」
「それは――でも――」
「一度会っておきたいんだ。今夜あたり、どうだろう?」
「今夜はちょっと――|約《やく》|束《そく》がありますので」
「それじゃ明日ならいいか?」
「明日なら……。分りました」
「それはありがたい。分ってくれるだろうが、あまり目立ちたくない」
「ええ、分ります」
「新宿に|個《こ》|室《しつ》|喫《きっ》|茶《さ》の〈J〉という店がある。ちょっと|妙《みょう》な場所だが、一番目につきにくいからね」
「場所は……」
朋子はメモを取った。「――明日の六時ですね。分りました」
「きっと、来てくれるね」
朋子は少し間を置いて、言った。
「たぶん、行けると思います」
受話器を|戻《もど》す手が、細かく|震《ふる》えていた。
「|忙《いそが》しいんだろう? 毎日来てくれなくてもいいんだよ」
|久《ひさ》|代《よ》がベッドの上で、|微《ほほ》|笑《え》みながら言った。
「何だか|邪《じゃ》|魔《ま》みたいね、|私《わたし》が来ちゃ」
と、朋子は|笑《わら》いながら、|椅《い》|子《す》を|引《ひ》き|寄《よ》せて|座《すわ》った。
「どう、気分は?」
「のんびり休ませてもらってるよ」
「それが一番なのよ。良くなったら、三人で|温《おん》|泉《せん》にでも行きましょうか」
「そうねえ。そうできればいいね」
「できるわよ」
朋子は、正直なところ、母がずいぶん弱って来たと思った。言葉にも、力がない。もちろん、相変らず|気《き》|品《ひん》があって、|端《たん》|然《ぜん》としているのだが、それはまるで色あせて行く写真のように、|明瞭《めいりょう》な|輪《りん》|郭《かく》を失いつつあった。
「美幸は?」
と久代が|訊《き》いた。
「今、お湯|沸《わ》かしに行ってる」
「そう……」
久代は少し間を置いて、「あの久米さんとかいう人と、|一《いっ》|緒《しょ》になってくれるといいね」
と言った。
「久米さんが|気《き》の|毒《どく》みたい。|尻《しり》に|敷《し》かれるのが目に見えてるもの」
「いい人だね、あの人は」
「本当にね。自分たちでうまくやって行くでしょ、今の|若《わか》い子たちは」
「お前一人に何もかもしょわせちまって、すまないね」
「やめてよ」
朋子はふざけ半分に母をにらんだ。「そういうことを言うの、お母さんの悪い|癖《くせ》よ」
「そうだね……。こうやってると、ついあれこれ考えちまうんだよ」
久代は、少し|疲《つか》れたように目を|閉《と》じたが、また思いついたように朋子の顔を見て、「何かあったんだね?」
「何のこと?」
「顔に書いてあるよ。お父さんから|連《れん》|絡《らく》があったの?」
いきなりそう言われて、朋子は|反《はん》|応《のう》を|隠《かく》すことができなかった。久代が、たたみ|込《こ》むように、
「そうなんだね?」
と|訊《き》いて来る。
ごまかすことはできなかった。
「ええ、電話が……」
「元気そうだった?」
「分らないわ。ちょっとしゃべっただけだもの」
朋子はじっと母を見つめて、「どうして分ったの?」
「分るわよ。親だからね」
そういうものなのだろうか。病人ゆえに、|勘《かん》が|鋭《するど》くなっているのかもしれない、と朋子は思った。
「お父さん、何か言ってたかい?」
「お母さんの具合、どうだ、って。それから……|私《わたし》に会いたいとも言ってたわ」
「どう返事をしたの?」
「明日会うって言ったわ。でも、|迷《まよ》ってるの。放っておこうかとも思うし……」
「会っておいで」
と久代は言った。「元気なら私が行きたいけどね」
「お父さんに会いたいの?」
「そりゃあ、|夫《ふう》|婦《ふ》だからね。きっと、|神《しん》|経《けい》の休まる間もないだろうよ、あの人は」
「自分で選んだのよ」
「|事情《じじょう》も知らずに人を|責《せ》めちゃいけないよ」
「だって――」
と言いかけて、朋子は美幸がやって来るのに気付いて口をつぐんだ。
「病院の食事っていいわね」
美幸はポットから|急須《きゅうす》へ湯を注ぎながら言った。「お姉さんも食べてみたら? 私、すっかりスマートになっちゃった」
「もう行くわ」
と朋子は立ち上った。
「何だ、もう?――用事なの?」
「スーパーに|寄《よ》らないとね」
と、朋子は出まかせを言った。「じゃ、また明日来るわ」
「明日は|約《やく》|束《そく》があるんだろ」
と久代が言った。
朋子は、母の静かな|眼《まな》|差《ざ》しを受け止めて、
「そうか……。じゃ、早く|済《す》んだら来るからね」
と、言った。
行くべきかどうか。
|一《ひと》|晩《ばん》、考えて、朋子には決心がつかなかった。母の気持を考えれば、会うべきかもしれない。しかし、父の希望通りにすることで、父のしたことを|許《ゆる》すように受け取られたくはなかった。
その日、午後になっても、朋子は決心がついていなかった。ともかく、仕事に|神《しん》|経《けい》を集中させようと努力していた。
決めるのを、少しでも先へ|伸《の》ばしておきたかったのである。
三時を回った|頃《ころ》、電話が鳴った。父からだろうか、と、|一瞬心臓《いっしゅんしんぞう》に|痛《いた》みを覚えた。
「村山です」
「田沢和彦です」
「ああ……」
朋子はふっと全身で息をついた。
「|突《とつ》|然《ぜん》電話して……」
と、和彦は言った。「実は、父の所に、村山さんから――あなたのお父さんから電話があったそうで」
「ええ、うかがいました。あの――|刑《けい》|事《じ》さんがみえて」
朋子は少し声を低くした。
「|申《もう》し|訳《わけ》ない。あなたへ真先にお知らせしなくてはならないのに、|警《けい》|察《さつ》へ|通《つう》|報《ほう》したりして……」
「いえ、それは当然のことです。どうぞお気になさらないで」
「そんなことはないですよ。父と|派《は》|手《で》にやり合ってね」
「|困《こま》りますわ、|私《わたし》が。――どうぞ、お父様には何もおっしゃらないで下さい」
「あなたの方にはお父さんから|連《れん》|絡《らく》はなかった?」
朋子は、少しためらってから、
「ありません」
と言った。
「そうか」
それきり、しばらく話は|途《と》|切《ぎ》れた。
「あの……わざわざありがとうございました」
と、朋子は言った。
「いや、とんでもない。あの――仕事の方はどうかな」
「はい、とても楽しくやっています」
「それなら良かった。ともかく、何かあればいつでも電話を――」
「ありがとうございます」
朋子は先に受話器を置いた。知らず知らず|緊張《きんちょう》していたようだ。父と今夜会うことになっている、と、つい和彦にしゃべってしまいそうな気がしたのだ。
もちろん、和彦に話したとしても、和彦が|警《けい》|察《さつ》へ|通《つう》|報《ほう》するとは思えない。ただ、朋子はできるだけ、和彦を|巻《ま》き|込《こ》みたくなかったのである。
それでいて、言葉が口をついて出ようとするのを必死で|押《おさ》えていなくてはならなかったのは、やはり、心細かったせいかもしれない。|単純《たんじゅん》に、朋子は父に会うのが|怖《こわ》かったのだ。
父が怖いのでなく、自分が父に何を言うかそれが|予《よ》|測《そく》できないから、怖かったのである……。
だが、|逃《に》げるわけにはいかない。やはり父に会わなくてはならない。一日のばし、二日のばしても、問題は|解《かい》|決《けつ》しないのだから。
黒い板ガラスの重い|扉《とびら》を|押《お》して中へ入る。――|個《こ》|室《しつ》|喫《きっ》|茶《さ》というのが、どういう目的で使われているのか、朋子とて知らぬわけではないが、それにしても、|異《い》|様《よう》に|薄《うす》|暗《ぐら》くて、静かだった。
目の前にカウンターがあり、|若《わか》い男が|退《たい》|屈《くつ》そうに|座《すわ》っていたが、朋子を見ると、
「いらっしゃいませ」と顔を上げた。
「あの……待ち合わせてるんですが、人と……」
「お名前は、朋子さまですか?」
「そうです」
「|廊《ろう》|下《か》の|奥《おく》を右へ入って、七号室です」
「どうも」
礼を言うと、相手がちょっと面食らったような顔になる。それはそうかもしれない。こんな場所で|密《みつ》|会《かい》しようというのだから、もっとこそこそしているのが|普《ふ》|通《つう》なのだろう。
廊下を進んで行って、右へ|折《お》れる。〈6〉〈7〉と部屋が|並《なら》んでいた。
七号室のドアの前に立って、朋子は、このまま帰ってしまおうかと思った。六号室のドア|越《ご》しに、女の|喘《あえ》ぐ声が|洩《も》れて来るのに気付いて、朋子の|頬《ほお》が|紅潮《こうちょう》した。
ノックもせずに、ドアを開いた。
「――朋子。よく来たな」
父が立ち上った。「ともかく、入りなさい。ドアを|閉《し》めて」
朋子は言われるままに中へ入って、後ろ手にドアを閉めた。|暖《だん》|房《ぼう》が暑いほどきいている。細長い小部屋で、|中途半端《ちゅうとはんぱ》な長さのソファと|椅《い》|子《す》、テーブルがあるだけだった。
「暑いだろう。コートを|脱《ぬ》いだら?」
村山はワイシャツにネクタイという|姿《すがた》だった。朋子もコートを脱いで、ソファへ投げた。
「――元気か?」
「|私《わたし》はね」
父は、予想していたほどは変っていなかった。――少し|疲《つか》れたような顔で、多少やつれてはいたが、いわゆる|憔悴《しょうすい》し切ったという印象はない。
ワイシャツも真新しく、ネクタイも新品で、上衣をちゃんと着こめば、まだ銀行マンとして|充分《じゅうぶん》に通用するだろう。
「母さんはどうだ?」
と村山が|訊《き》いた。
「気になるの?」
朋子は急に|憤《いきどお》りがこみ上げて来るのを、どうしても|抑《おさ》えられなかった。「|誰《だれ》のせいであんな安アパートで、寒さを|我《が》|慢《まん》してなきゃならなかったと思うの? お母さんの|心《しん》|臓《ぞう》を一度に十年分も|疲《つか》れさせたのは誰なの?」
声が|震《ふる》えて来るのが分って、朋子は言葉を切った。
村山は何も言わなかった。|黙《だま》ってタバコに火を|点《つ》けた。――家ではもう何年も|禁《きん》|煙《えん》していたのだが。
「具合は良くないわ」
少し静かな声に|戻《もど》って、朋子は言った。立ったままだった。
「そんなにか」
「今度大きな発作が来たら……|危《あぶ》ないと言われてるし、お母さんもそれは|承知《しょうち》してるみたいだわ」
「今日会うことを知ってるのか?」
「いいえ」
朋子はためらわずに|否《ひ》|定《てい》した。「お母さんを|興《こう》|奮《ふん》させるのが一番いけないのよ」
「そうだ。もちろんだな。――母さんには黙っていてくれ」
「ええ」
少し間を置いて、朋子は言った。「|宮《みや》|島《じま》|裕《ゆう》|子《こ》っていう人と、今も|一《いっ》|緒《しょ》なの?」
「ん? ああ……。そう、ずっと一緒にいる。――あれも体があまり|丈夫《じょうぶ》じゃない。|逃《に》げ|回《まわ》るのは大変だよ」
と村山は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「東京へ、どうして|戻《もど》って来たの?」
「用があってな、色々と……。それに、みんなもう|私《わたし》のことなど|憶《おぼ》えてはいないだろうし」
「|警《けい》|察《さつ》が昨日会社へ来たのよ」
「警察が?」
「田沢さんへ電話したでしょう」
「うん。お前たちの住いも|勤《つと》め|先《さき》も分らなかったのでね」
「田沢さんが後で警察に|通《つう》|報《ほう》したのよ」
「そうか。まあ当然だろう。|副《ふく》|頭《とう》|取《どり》の立場がある」
「警察へ出頭したら?」
村山はゆっくりと頭を|振《ふ》った。
「それはできん。私一人なら、それでもいいが、今はできない」
「ずっと|逃《に》げて歩くつもり?」
「その気になると、仕事はあるものさ」
と村山は気楽さを|装《よそお》って言った。
「じゃ、|好《す》きにしなさいよ」
朋子は|肩《かた》をすくめた。「私に会って、どうするつもりだったの?」
「どう、って……考えちゃいないさ。ただ会いたくなった。それだけだ。そして|謝《あやま》りたかった」
「勝手なことを……」
朋子は|再《ふたた》び声が高く|迸《ほとばし》って行くのを止められなかった。「どうして私だけに謝るの? 私なんかより、いつ死ぬかもしれないお母さんに謝ったら? 大学へ行かずにバーで働いていた美幸に謝ったらどうなの」
村山は青ざめてうつむくと、両手で顔を|覆《おお》った。
「何よ。何してるのよ。そうして苦しんでれば|済《す》むと思ってるの? あなたがいくら苦しんだって、お母さんの命が|延《の》びるわけじゃないわ! 私のお給料が増えるわけじゃないのよ。――|誰《だれ》が――誰があなたに|同情《どうじょう》したりするもんですか!」
もう言葉が出なかった。目が|涙《なみだ》で|曇《くも》って、|視《し》|界《かい》が|揺《ゆ》れた。
朋子はソファに|力尽《ちからつ》きたように、体を落とした。――そして、ふと気が付くと、ドアが開いて、美幸がハーフコート|姿《すがた》で立っていた。
「美幸……」
朋子の声で、村山も顔を上げた。
「田沢さんが病院に電話してくれたの」
と美幸が言った。「息子さんの方がね」
「和彦さんが……」
「お姉さんに電話したら、お父さんから|連《れん》|絡《らく》がなかったってむきになって言ってたから、変だと思ったらしいの。それをお母さんに話したら、お姉さんが、今日会うはずだって……。で、会社の前で待って後つけて来たの」
「じゃ、話を聞いてたの?」
「うん」
美幸は中へ入ると、ドアを|閉《し》め、部屋を見回した。「――こういうとこ、初めて。|割《わり》と|狭《せま》いのね」
「美幸、少しやせたんじゃないのか」
村山が言った。
「スマートになった、と言ってよ」
美幸は照れたように|笑《わら》って、「お父さん、変らないね。ちょっと|老《ふ》けたかな」
「そうか? |髪《かみ》は黒く|染《そ》めたんだ。かなり白くなったがね」
「それで|若《わか》く見えるのか」
美幸は|壁《かべ》にもたれて、「――今、|恋《こい》|人《びと》がいるのよ」
「そりゃいいじゃないか。大学生か?」
「うん。久米君っていって――見かけはパッとしないけど、いい人よ」
「|結《けっ》|婚《こん》するのか?」
「まだ分んないわよ」
「大学は……出るんだろう」
「お姉さん一人に働かせて大学なんか行っちゃったりしたら|申《もう》し|訳《わけ》ないと思うけど……。でも、続く|限《かぎ》りは|頑《がん》|張《ば》って行くわ」
「そうしてくれ」
村山は静かに言った。
朋子は、じっと顔を|伏《ふ》せて、父と美幸のやりとりを聞いていた。――|苛《いら》|立《だ》ちと|腹《はら》|立《だ》たしさと、そして|奇妙《きみょう》な|安《あん》|堵《ど》|感《かん》が、心の中で|渦《うず》|巻《ま》いている。
「|私《わたし》が何としてでも美幸に大学を卒業させてやるわ」
朋子はそう言って、ソファから立ち上った。「美幸、帰ろう」
「いいじゃないの、もう少し話して行けば」
「私はもうごめんだわ」
「お姉さん――」
「もうとっくに死んだものと思うようにして来たのに……。今になって、ただ会いたかったなんて、勝手すぎるわ!」
「|怒《おこ》らないで、お姉さん。お母さんだって、お父さんのことを|恨《うら》んじゃいないわ。きっとそれなりのわけがあったんだと――」
「|若《わか》い女と金を|盗《ぬす》んで|逃《に》げるのが、『それなりのわけ』なの? 家族を|捨《す》てて、放り出して――」
「お姉さん、やめて」
美幸は朋子の|腕《うで》をつかんだ。
「じゃ、あなた、ここにいるといいわ」
朋子は父の方へ、|燃《も》えるような|視《し》|線《せん》を投げて、「ゆっくりお話してらっしゃい」
と言うなり、コートをつかんで部屋を飛び出した。
「お姉さん!」
声が追いかけて来たが、足を止めなかった。――店の外へ出ると、冷たい風が吹きつけて来た。急いでコートに腕を通す。
|頬《ほお》が冷たかった。|涙《なみだ》が流れ落ちて、それを北風が|撫《な》でて行くのだ。
何の涙なのか。朋子にも良く分らなかった。ただ、|無性《むしょう》に悲しかった。
美幸が、ああして父に|優《やさ》しくするのが、ショックでもあった。父を|忘《わす》れるために、父がいなくても生きていけることを|立証《りっしょう》してみせるために、|頑《がん》|張《ば》って来たのではなかったか。
それが、今になって、ただ顔が見たいからと|戻《もど》って来た父に、美幸は|恨《うら》み一つ口にしない。――それが|悔《くや》しかった。
美幸には、母や朋子ほどの、切実な感覚がないのかもしれない。もともと美幸は父のお気に入りでもあった。どことなく、共通したものがあるのかもしれない。
それにしても……父を|許《ゆる》すことはできない! |絶《ぜっ》|対《たい》に、一生許しはしない!
|誰《だれ》かに|突《つ》き当りそうになって、朋子は足を止めた。
「――お父さんに会ったの?」
と、田沢和彦は言った。
朋子は|黙《だま》って|肯《うなず》いた。
「妹さんは?」
「今、|一《いっ》|緒《しょ》に……」
と、朋子は、|背《はい》|後《ご》に遠ざかった店の方を、チラリと見やった。
「そうか。――お父さん、元気そうだった?」
「死んでしまえばいいのに」
と、朋子は|呟《つぶや》くように言った。「――どうしてここに?」
「妹さんに電話してから、自分でも|確《たし》かめたくなってね。|余《よ》|計《けい》なお|節《せつ》|介《かい》かもしれないが」
「じゃ、やっぱり私の後を?」
「うん。妹さんも気が付かなかったようだ」
「ずいぶんぼんやり歩いてたんだわ。いやになっちゃう……本当に……」
と、朋子は|笑《わら》った。
「一|杯《ぱい》飲むかい?」
朋子は、和彦の、|優《やさ》しい|眼《まな》|差《ざ》しに見入った。そこには、今一番朋子の求めている安らぎがあった。
「ええ、お付き合いします」
朋子は|肯《うなず》いた。
「病院に行かなくちゃ」
と、朋子は言って起き上った。
「もう十時|過《す》ぎだよ」
和彦がベッドのわきの|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を取って見た。「入れるの?」
「|裏《うら》|口《ぐち》から入れると思うけど……」
朋子の|裸《はだか》の|肩《かた》に、和彦の腕が回った。朋子はちょっと|身《み》|震《ぶる》いして、和彦の方へ体をもたせかけた。
「――|酔《よ》った勢いでしょ?」
「|僕《ぼく》は|違《ちが》う。君はそうなの?」
「|私《わたし》はずっとジンジャーエールしか飲まなかったわ」
和彦がちょっと|笑《わら》って、朋子を|抱《だ》きしめた。
朋子は、このまま時が止ってくれたらいいと思った。父のことも、母の病気も、美幸の大学も、明日の仕事、明後日の予定も、|総《すべ》て消えてなくなればいい。
「――本当にもう行かなくちゃ」
本心とは|裏《うら》|腹《はら》の言葉が、勝手に流れ出て来た。
「そうか。じゃ、|無《む》|理《り》に止めないよ」
「シャワーを浴びるわ。――あるのかしら?」
「あるだろう、こういうホテルだから」
朋子は、ベッドから、そっと|抜《ぬ》け出した。
「目をつぶっててね」
急いでバスルームの戸を開けて、中へ入る。熱いシャワーで、|汗《あせ》ばんだ体を流した。
部屋へ|戻《もど》ると、もう和彦は服を着ていた。
「先に出てようか」
「ええ。お願い」
何となく照れたように|笑《わら》って、和彦は部屋を出て行った。
こんな風になろうとは、考えてもいなかったのだが、朋子は|充《み》ち|足《た》りていた。今、このときを楽しむということが、ずいぶん長い間、なかったような気がする。
これはこれでいい。もう終ったのだ。これから先は、また別の話なのだ。
服を着終えて、出て行くと、和彦は|廊《ろう》|下《か》で手もちぶさたにしていた。
「こういうの、ラブホテルっていうんでしょ?」
エレベーターの方へ歩きながら朋子は言った。
「らしいね。よく知らないけど」
「あら、ずいぶん|慣《な》れてるみたいだったけど」
「とんでもない! こんな所、初めてだよ。本当なんだ」
とむきになる和彦に、朋子はつい笑ってしまった。
「――やっと気分がほぐれたようだね」
タクシーの中で、和彦が言った。
「そんなにピリピリしていたかしら?」
「今にも|爆《ばく》|発《はつ》しそうだったよ」
「|爆《ばく》|弾《だん》ね、まるで」
「――この次はいつ会える?」
朋子は和彦の方をじっと見て、
「本当に、そう思ってるの?」
と|訊《き》いた。
「当り前だよ。|恋《こい》|人《びと》がいるなんて、どうせ|嘘《うそ》だったんだろう」
「知ってたの?」
「君は嘘が|下手《へた》だ」
和彦が朋子の手を|握《にぎ》った。
「これは遊び……でしょう」
朋子は低い声で言った。
「|違《ちが》う」
「だめよ。本気にならないで」
「なぜ? 父が|副《ふく》|頭《とう》|取《どり》だからか?」
「それもあるわ。ともかく――まともに行かないのは、目に見えてるわ」
「そんなこと関係ない」
「あるわ。人間はそういうものに|縛《しば》られて生きてるんだもの。周囲を|傷《きず》つけたり、不幸にしてもいいと言うのなら……父と変らなくなるわ」
「お父さんと君は別だ。お父さんのことを君が|負《ふ》|担《たん》に感じてるのなら――」
「もう、やめて。病院に着くわ」
朋子は身を乗り出して、「その手前で止めて」
と言った。
「――また電話する」
と、和彦が、タクシーを|降《お》りる朋子へ声をかけた。
朋子は|黙《だま》って手を上げて見せた。
病院は暗く、静かだった。救急車も見えない。|急患用《きゅうかんよう》の入口から入って、人のいない|廊《ろう》|下《か》を歩いて行く。
何度か来ているのに、よく廊下を|間《ま》|違《ちが》える。あそこを右……。
一階の、外来の待合室を|通《とお》り|抜《ぬ》ける。もちろん、今は真っ暗で、静まり返っている。
|表玄関《おもてげんかん》から入って正面。|扉《とびら》が開くと、北風がまともに吹きつける、病人にはあまりいい場所とも思えない。
|階《かい》|段《だん》の方へ向おうとして、朋子は足を止めた。――何か聞こえた。
|押《お》し|殺《ころ》したような、すすり|泣《な》きの声らしかった。|振《ふ》り|向《む》いて、見回してみる。
暗い、待合室の|奥《おく》から、それは聞こえて来た。|長《なが》|椅《い》|子《す》が、|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》に|並《なら》んでいるだけの場所である。
行ってしまおうかとも思ったが、何かが朋子の足をひき|寄《よ》せた。
その泣き声に、|聞《き》き|憶《おぼ》えがあった。
「――美幸」
と|呼《よ》ぶと、パタと声はやんだ。
「お姉さん?」
「美幸なの?――何してるの、こんな所で?」
椅子がガタガタと動いて、美幸が出て来た。
|常夜灯《じょうやとう》の光が、ぼんやりと、美幸の顔を照らし出した。
「どうしてこんな所にいるの?」
「だって……もう……」
美幸の声が|震《ふる》えて消えた。
朋子は、顔から血の気がひいて行くのを感じた。――分った。分ったのだ。
「お母さんが……」
美幸は顔をそむけて言葉を切った。
「――いつ?」
「少し……前。三十分くらい」
「そばにいたの?」
「うん」
「お母さん、何か言った?」
「何も。――発作があって、それっきり……」
「お父さんのことを……」
「話したわ。帰ってから」
「そう」
美幸は、姉の|腕《うで》にすがるようにして、
「言わない方が良かったかしら?」
と言った。
「そんなことないわ。お母さん、安心したでしょ、きっと」
「お姉さん……」
美幸が朋子に|抱《だ》きついて来た。朋子は、しっかりと妹を抱きしめた。初めて、|涙《なみだ》が|溢《あふ》れ出た。
「さあ……しっかりして……泣いてちゃ仕方ないじゃないの……」
朋子が、美幸の|肩《かた》を|揺《ゆ》さぶった。
足音がして、|振《ふ》り|向《む》くと、久米が立っていた。
「美幸、知らせたの?」
「だって、一人で……心細くって……」
「久米さん、わざわざすみません」
「いいえ」
久米は|困《こま》ったようにピョコンと頭を下げた。「本当に、残念でしたね」
「ありがとう。――妹をお願い。|私《わたし》は病室へ行って来ます」
「はい」
美幸は久米に肩を|抱《だ》かれて、やっと落ち着いたようだった。
――病室の前に、|担《たん》|当《とう》の|医《い》|師《し》がいた。
「あ、お姉さんでしたね」
「どうもお世話になりました」
朋子は、頭を下げた。
「まあ、いずれにしても、後二、三か月とはもたなかったでしょう。|瞬間的《しゅんかんてき》なもので……安らかでしたよ」
「そうですか」
朋子は病室の方を見て、「まだ、母はここに?」
と|訊《き》いた。
「ええ」
――病室の中は、静かだった。同室の|患《かん》|者《じゃ》たちが、一人として|眠《ねむ》っていないのが、気配で分った。
同じ病室の|仲《なか》|間《ま》が死ぬ。それは何よりも大きな空白、|虚《むな》しさだろう。
朋子は、母の静かな顔に、じっと見入った。――その直前に、母の|脳《のう》|裏《り》を|去《きょ》|来《らい》したのは、|誰《だれ》の顔だったろう。
朋子か、美幸か。――いや、|夫《おっと》の顔だったのかもしれない。朋子には、そう思えてならなかった。
第三章
1
|葬《そう》|儀《ぎ》の日は、|穏《おだ》やかに晴れた。
「――お姉さん」
|美《み》|幸《ゆき》に|呼《よ》ばれて、|朋《とも》|子《こ》は|振《ふ》り|向《む》いた。
「何?」
「表に……」
アパートの部屋では|狭《せま》|過《す》ぎるので、近くの公民館を借りていた。公民館といっても、古い|普《ふ》|通《つう》の家で、|立《たて》|札《ふだ》がなければ、|誰《だれ》もそれとは気付かないだろう。
|驚《おどろ》くほどの|焼香客《しょうこうきゃく》が|訪《おとず》れて来た。――朋子は、本当に母親と親しかった二、三人にしか、その死を知らせなかったのだが、そこから話は広まったらしく、母の関係だけでなく、父の友人、知人もやって来た。
あの、おっとりとして、世間の|垢《あか》というものに|染《そ》まることのなかった母が、いかに人から|好《す》かれていたか。朋子は改めて|目頭《めがしら》を熱くした。
「――失礼します」
美幸について表に出る。
少し|離《はな》れた所に、男が二人、立っていた。すぐに、会社へやって来た|刑《けい》|事《じ》だと分った。
「お姉さん、あの人たち――」
と不安げな美幸へ、
「あなたは|戻《もど》ってて」
と言って、朋子は歩いて行った。
「どうもこの度は……」
と年長の方の刑事が頭を下げた。
「おそれ入ります。――何か?」
「お父さんにお会いになりましたか?」
「いいえ」
「本当ですか?」
朋子は、刑事がどこまで知っているのだろう、と思った。しかし、母の|遺《い》|影《えい》の前で、父のことを|警《けい》|察《さつ》に話す気にはなれない。
「会いたくもありません。向うも合わせる顔がないでしょうし」
「なるほど。――しかし、お母さんが|亡《な》くなったことはご|存《ぞん》|知《じ》でしょうかね」
朋子はちょっと|肩《かた》をすくめた。
「分りませんわ。どこかから聞けば……」
「知っていれば、ここへ来るんじゃありませんかね」
と|若《わか》い刑事が言った。
年長の刑事は、|穏《おだ》やかだったが、若い方の刑事は、頭から朋子を信用していないのを|隠《かく》そうともしなかった。
「|私《わたし》には何とも|申《もう》し|上《あ》げられません」
と朋子は言って、「お客様に失礼ですので|戻《もど》りたいのですが」
「ああ、どうぞ。すみませんでしたな、おとりこみのところを」
年長の刑事が|丁《てい》|寧《ねい》に|会釈《えしゃく》した。
「|姿《すがた》を見せれば|逮《たい》|捕《ほ》しますよ」
|若《わか》い刑事が歩きかけた朋子に声をかけた。
「母の|告《こく》|別《べつ》|式《しき》です。できるだけ静かにお願いしますわ」
朋子はそう言うと、歩き出した。
父は知っているのだろうか? どこかから聞いたとして、|果《はた》してやって来るだろうか?
「――朋子さん」
ハッと足を止める。|田《た》|沢《ざわ》|和《かず》|彦《ひこ》だった。
「和彦さん、あなた――」
「父は来られないので、代りに……」
「わざわざすみません」
和彦は黒いスーツに黒いネクタイをしめていた。わざわざ|着《き》|替《が》えて来たとみえる。
「大勢みえてるね」
「ええ、びっくりするくらい」
「お母さんはいい方だった」
「本当に……」
和彦がうつむき|加《か》|減《げん》になって、
「――|申《もう》し|訳《わけ》なかったと思ってね。|僕《ぼく》が君を引き止めたせいで、お母さんの|亡《な》くなるとき、君はそばにいられなかった」
「そんなこと……。私は何とも思っていないわ」
本当に、初めてそのことに気付いたのだった。「母はもの分りのいい人だもの。きっと|笑《わら》って|励《はげ》ましてくれるわ」
「そう言ってくれると気が楽になるよ」
と和彦は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「思ったより元気で、よかった」
そして、二人の|刑《けい》|事《じ》の方をチラリと見て、
「あれは?」
「刑事さん。父が現れるかもしれない、って」
「そうか。――何もこんな所にいなくても」
「仕方ないわ。お仕事だもの、それが」
「お父さん、本当に来ると思う?」
「さあ、知っていれば……。でも、当然考えてるでしょうけど」
和彦は|肯《うなず》いて、
「僕も気を付けていよう」
と言った。「お母さんの前で|逮《たい》|捕《ほ》させたくないだろう」
朋子は何も言わなかった。
|出棺《しゅっかん》になった。
何となく|立《た》ち|去《さ》り|難《がた》いのか、大勢の人が表に出て待っていた。
朋子は、少し気が|緩《ゆる》んで来るのを感じた。やはり|緊張《きんちょう》していたのだろう。それに、|寂《さび》しい|葬《そう》|儀《ぎ》になるのではないかと思っていたので、ホッとしてもいたのである。
|火《か》|葬《そう》|場《ば》までついて行くのは、自分と美幸だけでいいと思っていた。母の兄弟はもう|亡《な》くなっていたから、それほど近い親類はいないのである。
棺が出て来るのを待っている間に、方々ですすり|泣《な》きが起こった。母の友人たちである。
その方へ目を向けて、朋子は、ふと、道の|奥《おく》へと|視《し》|線《せん》をずらした。タクシーが|停《とま》って、ドアが開く。
四、五十メートル|離《はな》れているので、車の中はよく見えないのだが、|誰《だれ》か|人《ひと》|影《かげ》が動くのが目に入った。
もしかしたら……。朋子は|心《しん》|臓《ぞう》が|激《はげ》しく打つのを感じた。
タクシーから、誰かが|降《お》り立った。
「お姉さん!」
美幸が|押《お》し|殺《ころ》した声で言った。「あれ――」
「|黙《だま》って」
朋子は|鋭《するど》く|囁《ささや》いた。
父だった。――|馬《ば》|鹿《か》なことを。|捕《つか》まるに決まっているではないか。
「どうする?」
美幸が言った。
どうするといって……。朋子は身動きできなかった。どうせいつかは捕まるのだ。今だって|構《かま》いはしない。そうだとも。母を死なせたのだから、当然の|報《むく》いだ。
「いやよ。私、お父さんが捕まるのなんて」
美幸が言った。
朋子は|振《ふ》り|向《む》いた。|刑《けい》|事《じ》たちの|姿《すがた》は見えなかった。もう引き上げたのだろうか?
和彦と目が合った。和彦が問いかけるように朋子を見る。朋子は|視《し》|線《せん》をゆっくりと動かして、歩いて来る父の方へ向けた。
和彦が人の間を|抜《ぬ》けて近づいて来た。
「――刑事は?」
と囁くように|訊《き》く。
「分らないわ」
朋子はちょっと首を|振《ふ》った。
村山は、道の半ばまで来ると、足を止めた。朋子と目が合っていた。
|棺《かん》が出て来る。人々がザワついて道をあけた。棺は、朋子の目の前を通って、父の|姿《すがた》を、|遮《さえぎ》るような形になった。
|通《とお》り|過《す》ぎたとき、朋子の目に、父が|合掌《がっしょう》している|姿《すがた》が|映《うつ》った。
朋子の|視《し》|界《かい》が|曇《くも》った。|涙《なみだ》が目に|灯《とも》ったのだ。そのとき、急に美幸が飛び出した。
朋子は気付かなかったが、あの刑事たちの一人、|若《わか》い方の刑事が、|塀《へい》ぎわを父の方へと進んで行くのが見えたのだ。
「お父さん! |逃《に》げて!」
美幸の|叫《さけ》び声で、村山は顔を上げた。美幸は同時に、|刑《けい》|事《じ》に向って飛びかかっていた。
「|離《はな》せ!」
刑事が美幸を|振《ふ》り離そうとした。和彦が走り出す。
必死にしがみつく美幸を、刑事はなかなか振り切ることができなかった。|平《ひら》|手《て》が美幸の|頬《ほお》に鳴って、美幸が|倒《たお》れた。
「何をするんだ!」
和彦が刑事へ飛びかかった。
「やめて!」
朋子が|叫《さけ》んだ。「和彦さん!」
|混《こん》|乱《らん》が続いた。朋子は美幸を|抱《かか》え|上《あ》げた。
「お父さん……」
美幸が頬を押えながら、「お父さんは?」
と言った。
道には、もう|誰《だれ》の|姿《すがた》もなかった。
「美幸」
と、朋子が言った。
「なあに?」
朋子のアパートである。もう夜中に近かったが、二人とも黒いワンピースのままだった。一体何時間、こうして|座《すわ》っているだろう。
「あなた……お父さんと何を話したの?」
「何よ、急に」
「急に、ってことないでしょ。あのときは何も|訊《き》く|暇《ひま》がなかったからよ。――お父さんと何の話をしたの?」
「別に……。|私《わたし》の方がほとんどしゃべってたんだもの」
と美幸は言った。「お姉さんのこと、お母さんのこと……。色々聞きたがってたから……」
「自分のことは話さなかったの?」
「少しは、ね」
「何と言ったの?」
「さあ……」
美幸は首をかしげて、「よく|憶《おぼ》えてないけど」
「美幸」
朋子は少し強い口調で言った。
「え?」
「私に何か|隠《かく》してるんじゃないの?」
「隠してなんかいないよ。どうしてそんなこと言うの?」
「なぜ、今日、|刑《けい》|事《じ》に飛びかかって行ったりしたの?」
「目の前でお父さんが|捕《つか》まるの、見たくなかったんだもの」
「どうして? 私たちを|捨《す》てて行った人なのよ。お母さんだって、お父さんがあんなことしなければ、ずっと長生きしたでしょうに」
「でも、お父さんはお父さんじゃない、やっぱり」
「私は平気だったわ」
「そう? 私、いやだわ」
美幸は首を|振《ふ》った。「だってさ、お父さんにはあの女の人がいるじゃない」
「|宮《みや》|島《じま》|裕《ゆう》|子《こ》?」
「そう。その人に対してもさ、お父さん|責《せき》|任《にん》があるわけでしょ。だから|逃《に》げてるんだと思うな。でなきゃ、とっくに自首してると思うわ」
「どうだか」
|玄《げん》|関《かん》でチャイムが鳴った。
「――はい」
|警《けい》|察《さつ》でなければいいと思いながら、ドアを開けると、和彦が、ちょっと照れたような顔で立っていた。
「和彦さん。――今まで警察に?」
「うん。|刑《けい》|事《じ》だと思わなかった、って|言《い》い|張《は》ってね。ただ妹さんを|殴《なぐ》るのを見て飛びかかったんだって」
「向うは信じたの?」
「信じちゃいなかったろうさ。でも絶対に|嘘《うそ》だとも言い切れないからね。何とかごまかして来たよ」
「ごめんなさい、|迷《めい》|惑《わく》かけて」
「|僕《ぼく》が勝手にやったことだから、気にしないでくれよ」
「そんなわけにはいかないわ」
美幸が立って来ると、
「私、下宿へ|戻《もど》るわ」
と|靴《くつ》をはいた。
「あら、だって」
「色々な物、全部あっちだし。明日、整理してみないと」
「そう。じゃ、電話して」
「明日は会社?」
「明日までは休むつもり」
「じゃ、おやすみなさい」
美幸が足早に出て行くと、和彦と朋子は、何となく|黙《だま》り|込《こ》んで|玄《げん》|関《かん》に立っていた。
「ともかく――上って」
「うん」
「夕食は?」
「そういえばまだだったよ」
「それどころじゃなかったわね」
と、言って、朋子は|笑《わら》った。
和彦も|一《いっ》|緒《しょ》に笑った。
次の|瞬間《しゅんかん》、朋子は和彦の|腕《うで》の中にいた。|唇《くちびる》に|彼《かれ》の唇を感じると、熱いものが身を満たして来るのが分った。
「待って……待って」
朋子は|逃《のが》れようとした。だが、和彦はそのまま朋子から|離《はな》れなかった。二人は|畳《たたみ》の上に|倒《たお》れ|込《こ》んだ。
――明りが。
口の中だけで|呟《つぶや》いた。その言葉が声になる|間《ま》を、和彦の唇は|与《あた》えなかった。
「何か言おうとしたね」
と和彦が言った。
「え?」
「さっき、ここへ横になったとき」
「ああ」
朋子は|笑《わら》って、「明りを消して、って言おうとしたのよ」
「何だ、そうか」
「もう|手《て》|遅《おく》れね。いいわ、今さら」
「寒くない?」
「暑いくらい。あなたは?」
「僕の方が暑い」
二人は|裸《はだか》の体を|寄《よ》せ|合《あ》った。
「でも、服着ないと|風邪《かぜ》ひくわ。今はいいけど」
「こうしてりゃ|暖《あたた》かいさ」
「いつまでもこうしてられないでしょ」
「僕は|構《かま》わない」
「せめて|布《ふ》|団《とん》ぐらい|敷《し》かなきゃ。|痛《いた》くて仕方ないわ」
「ごめんごめん」
朋子は起き上ると、|裸《はだか》のまま浴室へ入って行った。
「お|風《ふ》|呂《ろ》へ入るでしょう?」
と中から声をかける。
「うん、そうしよう」
「すぐ|沸《わ》くわ」
風呂に火を|点《つ》けると、朋子は、上り湯を出して、熱い湯を一|杯《ぱい》浴びた。
バスタオルで|簡《かん》|単《たん》に|拭《ぬぐ》っておいて、それを体に|巻《ま》きつけたまま、部屋へ|戻《もど》る。
「冬は時間がかかって」
と言いかけて、声が|途《と》|切《ぎ》れる。
和彦がズボンとワイシャツ|姿《すがた》で立っていた。|玄《げん》|関《かん》の方を|厳《きび》しい目で見ている。――玄関に田沢が立っていた。
「田沢さん……」
朋子はバスタオル一つのままで立ちすくんだ。全身を冷たいものが|貫《つらぬ》いて走った。
「|警《けい》|察《さつ》へ行くと、もうお前は|釈放《しゃくほう》されたというから、もしかしたらと思って来てみたのだ」
田沢は、|無表情《むひょうじょう》な声で言った。
「お父さん、|僕《ぼく》は――」
「お前は|子《こ》|供《ども》ではない。したことに|充分責任《じゅうぶんせきにん》は取れるだろう。しかし、自分の立場も|忘《わす》れるな」
田沢は|厳《きび》しい口調で言った。和彦は口を|閉《と》じた。田沢は朋子の方を見て、
「服を着なさい。話がある」
と言うと、ドアを開けて、「表で待っている」
ドアが|閉《し》まった。
「心配しないで」
和彦は朋子の|肩《かた》へ手をかけた。「僕が話をして来る」
「いいえ」
朋子は和彦の手に手を重ねた。「|私《わたし》にお話があるんですもの。私が行くわ。|大丈夫《だいじょうぶ》よ、私は」
「でも――」
「いいの。ここにいて」
朋子は急いで服を着ると、コートをはおって、一人で表に出た。
風が強くなっていた。|頬《ほお》がナイフで切られるように|痛《いた》い。
アパートの外で、田沢が待っていた。
「ここでは話もできん。どこか店はないかね」
思いがけず、言葉は|優《やさ》しかった。
「この先に|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》が」
「アルコール|抜《ぬ》きか。まあいいだろう」
田沢が朋子を|促《うなが》した。
店は、テーブル三つと、カウンターだけの小さなもので、他に客はなかった。いや、|奥《おく》で一人、|居《い》|眠《ねむ》りしているサラリーマンらしい男がいた。
「|終夜営業《しゅうやえいぎょう》のチェーンなんです。ホテル代りに|寝《ね》に来る人も|結《けっ》|構《こう》いるみたいですわ」
と、朋子は言った。
「あんな|真《ま》|似《ね》ができるのも|若《わか》い内だ」
と田沢は、眠っている男を見ながら言って、「さて……」
と|視《し》|線《せん》を|戻《もど》した。
「和彦さんを|責《せ》めないで下さい」
と朋子は言った。「私たちのためにしてくれたことですから」
「|刑《けい》|事《じ》と|殴《なぐ》り|合《あ》うとはね。|驚《おどろ》いたよ」
田沢は|苦笑《くしょう》して、「銀行マンとしては、いささか不都合だ。分るだろうね」
「はい」
「君も|気《き》の|毒《どく》だとは思う。私も|息子《むすこ》ぐらいの|年《ねん》|齢《れい》なら、君に|同情《どうじょう》していたかもしれんよ」
田沢は〈同情〉という所に、ちょっとニュアンスを置いて言った。つまり、和彦は朋子に同情しているので、愛しているわけではないと言いたいのだろう。
「あいつが君のことを心配しているのは知っていたが、まさかああいう|仲《なか》とは思わなかった。いや――」
と田沢は、口を開きかけた朋子を止めて、「あいつも大人だし、君もそうだ。ああいう関係になったからといって、それを悪いとは言わない。しかし、和彦は|副《ふく》|頭《とう》|取《どり》の|息子《むすこ》という立場があるのだ」
「はい」
「副頭取の息子が、その銀行の金を|横領《おうりょう》して|逃亡中《とうぼうちゅう》の男の|娘《むすめ》と|恋《こい》|仲《なか》だと知れたら、世間はどう思うだろう」
朋子は|黙《だま》って目を|伏《ふ》せた。
「あれとのことは遊びだと思っているのかね」
「いいえ」
と朋子はすぐに言った。「遊びではありません」
「そうか。しかし、私は遊びであってくれた方がありがたい」
田沢はポケットを|探《さぐ》って、何か|分《ぶ》|厚《あつ》いノートのような物を出した。
朋子はそれが小切手帳だと分った。
「小切手を切ろう。いくらにしたらいい?」
朋子は、自分が|惨《みじ》めに思えた。田沢が黙って息子と別れてくれと言えば、それに|応《おう》じたかもしれない。しかし、田沢は金で|解《かい》|決《けつ》しようと思っているのだ。
それは朋子をそういう女だと見ているからだろう。
「お金なんか……」
「もらってくれ。三百万か。五百万出そうか?」
田沢は少し間を置いて、「――私を|軽《けい》|蔑《べつ》しているかね?」
と言った。
「はい」
「そうだろうな。私も君がこれをすんなり受け取ってくれるとは思っていないよ。しかし、君がそういう|女《じょ》|性《せい》でいる|限《かぎ》り、和彦は君を|諦《あきら》めないだろう。だが、君が金を受け取って別れると|約《やく》|束《そく》したと知れば……」
朋子は顔から血の気がひいて行くのが分った。――田沢の方が正しい。その通りだ。
和彦のように一本気で|真《ま》|面《じ》|目《め》な男は、反対されれば|却《かえ》って一気に|突《つ》っ|走《ぱし》ってしまうだろう。
和彦に諦めさせるには、和彦が朋子に失望しなくてはならない……。
今、和彦を失っても|大丈夫《だいじょうぶ》だろうか? 自分は生きて行けるのか。いや――そうする他はない。和彦が、今の地位も、|未《み》|来《らい》も|総《すべ》てを|捨《す》てて朋子のもとへやって来たら……。それは父のやったことと変りない。
周囲を|傷《きず》つけ、自分だけの満足を求めているのでは、父と同じ|過《あやま》ちを|犯《おか》すことになるのではないか。
和彦にそこまでさせてはならないのだ。
「――分りました」
と朋子は言った。
「受け取ってくれるかね」
「はい」
「その代り――」
「|承知《しょうち》しています。もう和彦さんとはお会いしません」
「ありがとう」
田沢は小切手を切ると、「五百万だ。少ないが、妹さんの大学費用ぐらいにはなるだろう」
とテーブルに置いた。
朋子はそれをコートのポケットに|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に|押《お》し|込《こ》んだ。
「|私《わたし》はここにいますから、和彦さんを連れて帰って下さい」
「そうしよう。――いや、|払《はら》いは私がもつよ」
「すみません、|財《さい》|布《ふ》を持って出なかったので……」
田沢は立ち上ると、行きかけてふと足を止め、
「お父さんは元気だったのかね?」
「ええ、元気な様子でした」
「そうか」
田沢は|肯《うなず》いて、店を出ていった。|自動扉《じどうとびら》が開いて|閉《し》まるまでの間に|忍《しの》び|込《こ》んだ北風が、朋子の足下に|絡《から》みついた。
三十分――四十分たって、朋子はアパートへ|戻《もど》った。
もちろん、和彦はいなかった。ドアの|鍵《かぎ》は開けたままで、明りも|点《つ》いたままになっている。|狭《せま》いアパートが、いやに広々と感じられた。
|畳《たたみ》に|座《すわ》り|込《こ》むと、しばらく動かなかった。やっとコートを|脱《ぬ》いで、放り出すと、ヒラリと小切手が落ちた。両手で顔を|覆《おお》って、息を|吐《は》き|出《だ》した。
コトン、コトンという音が、|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》から聞こえて来て、朋子は顔を上げた。
「あ――。お風呂が」
立ち上って、急いで浴室へ入る。|沸《わ》きすぎて、|煮《に》えたぎるような熱さになっていた。|危《あぶ》ないところだった。|下手《へた》をすればガス|中毒《ちゅうどく》である。
|一瞬《いっしゅん》、ガスで死のうか、という考えが頭をかすめた。母が死に、和彦も|去《さ》った。生きていてどうなるだろう。
朋子は風呂場に|座《すわ》り|込《こ》んだ。|笑《わら》っていた。|泣《な》きたいのに、こみ上げて来るのは、苦い笑いだった。
死ぬことはできない。――美幸もいる。そして明日の仕事もあるのだ。
それだけのために生きて行くのは、|途《と》|方《ほう》もなく|辛《つら》いことのように思えて、朋子は、その場でじっと座り込んだまま動かなかった……。
2
「今日のお昼はうんと|豪《ごう》|勢《せい》に食べまくろう!」
「何よ、いつも食べてないみたいに聞えるじゃないの」
「あら、いつも|控《ひか》え|目《め》よ」
「へえ、あれで?」
「言ったな!」
|笑《わら》い|声《ごえ》が|響《ひび》く。――今日はボーナスの支給日である。
昼休みになると、みんな|一《いっ》|斉《せい》に|姿《すがた》を消してしまった。いつもはお|弁《べん》|当《とう》|持《じ》|参《さん》の者も、今日ばかりは|懐《ふところ》もあたたかく、外で食事をとろうというわけらしい。
朋子は、まだ二か月にもならないというのに、特別にボーナスをもらった。もちろんわずかな|金《きん》|額《がく》だが、思いがけない|収入《しゅうにゅう》だった。
あいにくの|曇《くも》り|空《ぞら》だったが、外へ出てみようか、と思った。少し気晴らしも必要だ。
コートを|事《じ》|務《む》|服《ふく》の上にはおって、表へ出てみたが、風があまりないので、思っていたほど寒くはなかった。あまり会社の人の来ない店を選んで入った。
カレー|専《せん》|門《もん》|店《てん》で、そう味も悪くない。――食事をしながら、ガラス|越《ご》しに、あわただしく行き交う人の流れを|眺《なが》めていた。
十二月。――母の死からもう一か月近くが|過《す》ぎた。
和彦はあれ以来、一度も|連《れん》|絡《らく》して来なかった。課長の大久保に和彦がどうしているか|訊《き》いてみたいとも思ったが、やめておいた。知って、どうなるものでもない。
美幸は相変らず下宿にいた。アパートへ帰って|一《いっ》|緒《しょ》に|暮《くら》せば、生活費も安く上るのだが、一人でいたいというので放っておいた。
今のところ、|貯《ちょ》|金《きん》はないわけでもない。田沢にもらった五百万の小切手が貯金してある。しかし、朋子としては、そのお金には、手を付けたくなかった。
いつか、|総《すべ》てが終ったとき、田沢へそのまま返してやりたいと思っていた。
食事を終って、移るのも|面《めん》|倒《どう》でそのままコーヒーを|頼《たの》んだ。おいしくはないが、寒い中を他の店まで行く元気もなかった。
ぼんやりと外を|眺《なが》めていた朋子は、ふと男が一人、道の向う側に立って、こっちを見ているのに気付いた。――|誰《だれ》だろう?
その男に目が行ったのは、おそらく、せかせかと先を急ぐ人々の流れの中で、じっと立ち止まっているせいだろう。
しばらくその男の方を眺めていたが、朋子は、その内に、どこかで見たことがある、という気がして来た。――顔は、遠すぎてよく見えないのだが、全体の印象が、|記《き》|憶《おく》のどこかに|触《ふ》れるのである。それに、なぜあんな所に立っているのか、寒い中で、まるでこっちを|見《み》|張《は》ってでもいるかのように……。
「そうだ」
と|呟《つぶや》いた。
あの|刑《けい》|事《じ》だ。父を|逮《たい》|捕《ほ》しようとして和彦と|喧《けん》|嘩《か》をした若い刑事に|違《ちが》いない。しかし、こんな所で何をしているのだろう?
朋子は、何となく落ち着かない気分で店を出て、会社へ|戻《もど》った。ビルに入るとき、|振《ふ》り|向《む》くと、刑事は目に見える|距《きょ》|離《り》でついて来ていた。
|私《わたし》を|見《み》|張《は》っているんだわ、と朋子は思った。――当然、目的は父の方だろう。しかし、どうして今になって……。
それとも、これまで|尾《び》|行《こう》されていたのを気付かなかったのだろうか。――そうとも思えない。というのは、今の様子から見て、刑事は|隠《かく》れて見張ろうというつもりがないようだったからだ。知られても一向に|構《かま》わないという気分でいるらしい。
何を考えているのか、朋子には分らなかった。極力頭から|刑《けい》|事《じ》のことを追い出そうとして、仕事に|専《せん》|念《ねん》した。
おかげで時間のたつのが早い。
四時を回って、朋子は大久保に|呼《よ》ばれて会議室へ行った。がらんとした会議室に、ポツンと大久保が|座《すわ》っている。
「お|呼《よ》びですか」
と朋子は言った。
「やあ、どうも。――かけて下さい」
大久保はいつになく、|困《こま》ったような|表情《ひょうじょう》をしていた。どうしたというのだろう。
「何かお話が……」
朋子は、大久保があまり|黙《だま》っているので、|促《うなが》すように言ってみた。
「実は刑事が来たのですよ」
と大久保は言った。
「刑事……」
「私の所へ来れば良かったんだが、社長に|直接《ちょくせつ》会いたいと言ったんですな。相手が|警《けい》|察《さつ》では|断《ことわ》るわけにもいかん」
「それで、何の用でしたの?」
「あなたのことをあれこれしゃべったり、|訊《き》いたりしていったらしい」
「私のことを?」
「つまり、お父さんのことを|承知《しょうち》であなたを|雇《やと》ったのかどうか、それから、金の|盗《とう》|難《なん》はなかったか、とか……」
朋子は|頬《ほお》を|紅潮《こうちょう》させた。
「私が|泥《どろ》|棒《ぼう》だと――」
「いやいや、そうは言いません。刑事がそう訊いたんですよ。もちろん、何の関連もない|質《しつ》|問《もん》だと|言《い》い|逃《のが》れはできますが、続けて訊けば、誰でも相手は、あなたが来てから、と受け取るでしょう」
朋子は|怒《いか》りをじっと|抑《おさ》えて、
「他に何か……」
「あなたが、お父さんの|逃《とう》|走《そう》を助けて、|公《こう》|務《む》|執《しつ》|行《こう》|妨《ぼう》|害《がい》|罪《ざい》に問われたとか」
「|嘘《うそ》です」
朋子は|呆《あき》れて言った。「和彦さん――田沢さんが|事情《じじょう》を聞かれましたけど、|罪《つみ》には問われていません」
「|私《わたし》もその辺は分っていますからね、社長にそう言ったんですが……」
「社長さんは父のことをご|存《ぞん》|知《じ》なんでしょう?」
「知っています。あなたの仕事ぶりも気に入っている。だから、今日の話を信じているわけじゃないのですが、やはり|警《けい》|察《さつ》が相手となると、会社としては|喧《けん》|嘩《か》もできませんからね」
朋子は、あの|刑《けい》|事《じ》のやり方に|腹《はら》が立った。一体何のつもりなのか。
「ともかく、社長としては、警察ともめごとを起こすようなことは、してほしくないというわけなんです。それをあなたへ伝えてくれと言われましてね。気は進まなかったんですが」
「どうもご|迷《めい》|惑《わく》をおかけして……」
席へ|戻《もど》っても、しばらく仕事にならなかった。――刑事は何が目的であんなことをしたのか。朋子には見当もつかなかった。
会社を出ると、もう真っ暗で、あの刑事が|尾《び》|行《こう》しているのかどうか、|確《たし》かめられなかった。
買物をしてアパートへ戻ると、冷え切った部屋が朋子を待っている。ストーブをつけて、その前にじっとうずくまるようにして、|暖《あたた》まるのを待っていると、何ともいえない|寂《さび》しさがのしかかって来る。
和彦のことが、つい思われた。自分で遠ざけておいて、勝手な、と|苦笑《くしょう》する。――もう|過《す》ぎてしまったことだ。もう少し日がたてば顔も思い出せなくなるだろう。もう少し……。
「|今《こん》|晩《ばん》は」
表で声がした。
「はい」
「内田ですが」
二階の住人である。ちょっとトゲのある|奥《おく》さんで、朋子は|苦《にが》|手《て》だった。
「はい……」
出てみると、いつもよりずっと|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な顔で、
「やっとお帰りね」
と、つっかかるように言った。やせこけて、メガネをかけ、どことなくやせたニワトリを連想させる。
「何か?」
「何かじゃありませんよ。出てっていただきたいわ」
出しぬけに言われて、朋子は面食らった。
「これを見て下さいよ」
と出したのは、一通の手紙で、かなり|乱《らん》|暴《ぼう》に|封《ふう》を|破《やぶ》ってあった。
「それが何か?」
「うちへ来た手紙よ。|誰《だれ》が封を切ったと思う?」
「さあ……」
「|刑《けい》|事《じ》さんよ」
「刑事――」
「あなたあてにあなたのお父さんから|連《れん》|絡《らく》が来るんじゃないかってね」
「父から? でも――どうしておたくの手紙を?」
「あなたあての手紙は調べられると分ってるだろうからここの住人あてに出して来るかもしれないって言ってね。私だけじゃないわ。他の人も一度や二度はやられてんのよ」
朋子は青ざめた。
「知りませんでしたわ」
「みんなあなたに|同情《どうじょう》して|黙《だま》ってるけど、私はごめんよ。何も|警《けい》|察《さつ》に|探《さぐ》られるような悪いことしちゃいないんだから。|郵《ゆう》|便《びん》|受《うけ》のあたりをいつもウロついてるの、知らなかったの?」
「昼間いませんから……」
「ともかく、あんた一人のおかげで|迷《めい》|惑《わく》してるんだからね。ちょっと考えてちょうだいよ」
朋子は固い表情で、
「どうもご迷惑をかけました」
と|詫《わ》びた。「警察へ行って、よく事情を|訊《き》いてみます」
「どうでもいいけど、あんたがいると何かとあるからね」
何があるというのか、と訊き返したいのを、朋子は|抑《おさ》えた。
一人になると、|憤《いきどお》りがこみ上げて来る。何のつもりでこんな|真《ま》|似《ね》をするのか。――|抗《こう》|議《ぎ》するといっても、どこへ行けばいいのだろう?
交番へ行っても始まるまい。といって、|警視庁《けいしちょう》へ行ったって取り合ってくれないのではないか……。
しばらく、|考《かんが》え|込《こ》みながら|座《すわ》っていると、急にあわただしくドアを|叩《たた》く音がした。
「お姉さん!」
美幸だ。朋子は急いでドアを開けた。
「――ああ、こわかった!」
美幸が息を切らして|畳《たたみ》の上にドサッと身を投げ出した。
「どうしたの、一体?」
「|誰《だれ》かが……ずっと後をついて来るの。もう……気味悪くって……」
と|肩《かた》で息をしている。「思いっ切り走って来ちゃった……」
後をつけられた……。|偶《ぐう》|然《ぜん》ではあるまい、と朋子は思った。
「それ、きっと|警《けい》|察《さつ》よ」
「え?――何のこと?」
朋子が|事情《じじょう》を説明すると、美幸は|頬《ほお》を|紅潮《こうちょう》させて、
「何だってそんなことをするのよ! 何の|権《けん》|利《り》で――」
「|怒《おこ》ったって仕方ないわ」
朋子はゆっくり首を|振《ふ》った。「お父さんと|私《わたし》たちが|連《れん》|絡《らく》を取ると思ってるんだわ。私たちを|困《こま》らせて、もしかしたら会社を|辞《や》めなくちゃならない、ここも出て行かなきゃならないとしたら……」
「|馬《ば》|鹿《か》にしてる! お父さんより他にもっと|捕《つか》まえる相手がいくらでもいるでしょうに」
「この前のことで、きっと|警《けい》|察《さつ》も怒ってるのよ」
「だったら、私を|逮《たい》|捕《ほ》すればいいのよ」
「何を言ってるの」
と朋子はにらんだ。
「だって……」
美幸はふくれっつらになって、「どうするのよ、これから?」
「私たちにはどうにもできないじゃないの」
「どこかへこっそり|引《ひっ》|越《こ》そうよ」
「警察が相手よ。調べられればすぐ分るわ。――放っておく他ないわよ。その内には向うも|諦《あきら》めるわ」
「だって、もし本当にお父さんが――」
「そんなことないでしょ。もし連絡して来るにしても電話か何かよ。いきなり会いに来たりしないでしょ」
朋子は大分落ち着いて来た。カッとなれば負けだ。ここは受け流しておくに|限《かぎ》る。
「美幸、何か用だったの?」
と朋子は|訊《き》いた。
「ああ、そうか。|忘《わす》れるとこだった」
美幸はちょっと|笑《わら》って、「――久米君のことで話があるの」
「どうしたの?」
「今、|一《いっ》|緒《しょ》に住んでるの」
朋子はちょっと目を見開いて、
「そう」
と言った。
|怒《おこ》る気もしない。こうもあっさり言われたのでは。
「怒らないの?」
「いいじゃない。お母さんもそう言ってたわ。あなたたちが一緒になればいいって」
「良かった!」
美幸の顔が明るく|輝《かがや》くように見えた。
「式は|挙《あ》げないの?」
「大学出てからね。自分の力でやるわ」
「|好《す》きにしなさい」
朋子は|笑《え》|顔《がお》になって、言った。「|子《こ》|供《ども》、できてるんじゃないでしょうね」
「気をつけてるから|大丈夫《だいじょうぶ》。できてたら走って来ないわ」
「じゃ、一つお|祝《いわ》いに外へ出ようか」
「いいね! 二人なら|怖《こわ》くないわ」
「つけられたっていいわよ。|却《かえ》って安心じゃない、|刑《けい》|事《じ》なら」
朋子は軽く言ってコートをはおった。いい事だって少しはなくては。久米と美幸か。――ちょっと久米の方には|気《き》の|毒《どく》な気もしたが、朋子としては、反対する気は全くなかった……。
一週間が|過《す》ぎた。
あれ以来、刑事の|姿《すがた》も見えなかったし、アパートの|郵《ゆう》|便《びん》|物《ぶつ》を調べられることもなくなったらしく、|苦情《くじょう》も来なかった。
もう|諦《あきら》めたのだろうか?
朋子の生活も、以前のテンポを|取《と》り|戻《もど》していた。久米も美幸と|一《いっ》|緒《しょ》に遊びに来るようになったし――もっともこれは美幸の夕食代|節《せつ》|約《やく》|策《さく》の一つだったが――日々が落ち着いて流れて行くようになった。
だが、世間の方は|師走《しわす》というわけで、町も|次《し》|第《だい》にあわただしさを増して来ていた。
父のことも、時には考える。この|年《とし》の|瀬《せ》にどこでどう|過《す》ごしているのだろうか。――しかし、毎日の仕事や|雑《ざつ》|事《じ》に追われている内に、いつしか|忘《わす》れて行くのだった。
「――村山さん」
大久保課長が呼びに来たのは、昼休みを終えて、さて仕事を始めようかと席についたときだった。
「はい」
と立って行くと、
「ちょっと来て下さい」
と会議室の方へ連れて行かれた。
「あの――何かあったんでしょうか?」
大久保の後について歩きながら、ふっと不安になって朋子は|訊《き》いた。
大久保は答えなかった。朋子は|一《いっ》|層《そう》不安になった。しかし、大久保の顔つきは、この前のときとは、どこか|違《ちが》っているような気がする。
一番|奥《おく》の会議室まで行くと、大久保は、ドアの|札《ふだ》を、〈会議中〉と変えてから、
「ここで待っていて下さい」
と開けて言った。
「はい」
一人で、広い会議室に取り残された朋子は、|椅《い》|子《す》に|座《すわ》っている気にもなれず、広い|窓《まど》の方へ|寄《よ》って表を|眺《なが》めた。
「雪だわ」
|呟《つぶや》きが|洩《も》れる。|間《ま》|違《ちが》って飛ばしてしまった|紙《し》|片《へん》のような雪が、数えられるほどの量だが、|舞《ま》い|落《お》ちていた。――寒いはずだ。
ドアを開く音に|振《ふ》り|返《かえ》ると、和彦が立っていた。
「|座《すわ》らないか」
言われるままに、朋子は近くの椅子を引いて座った。
「お仕事の|途中《とちゅう》?」
「うん」
「いいの、こんな所に」
「あまり時間はないけど……」
和彦は、大分やつれて見えた。
「何かあったの?」
「|転《てん》|勤《きん》だ」
「そう」
銀行員に転勤はつきものだ。
「どこへ?」
「フランクフルトだよ」
「ドイツ?」
朋子は思わず|訊《き》き|返《かえ》した。――しかし、考えてみれば不思議なことではない。和彦は父親の期待を|担《にな》う|幹《かん》|部《ぶ》|候《こう》|補《ほ》のエリートである。むしろ|海《かい》|外《がい》|勤《きん》|務《む》は当然とも言える。
「出世ね。おめでとう」
と朋子は言った。
「そう言うと思ったよ」
和彦は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「そんなことじゃないんだ。|追《お》い|払《はら》われるのさ」
朋子は|当《とう》|惑《わく》した。
「どうして?」
「あの、|僕《ぼく》と|殴《なぐ》り合った|刑《けい》|事《じ》がね、このところ毎日のようにつけ回してるんだ」
朋子は息をつめて手を|握《にぎ》りしめた。
「あなたの所にまで――」
「じゃ、君も?――そうか。そんなことだろうと思っていたよ」
「ごめんなさい」
朋子は顔を|伏《ふ》せた。
「君が|謝《あやま》ることはない。あの|事《じ》|件《けん》を、親父が|駆《か》け|回《まわ》ってもみ消したのが|腹《はら》に|据《す》えかねているんだろう。――銀行にいるときは、ずっと店の中に立って|見《み》|張《は》ってるし、外を回ればついて来る。|僕《ぼく》は|無《む》|視《し》していたんだが、その内、|得《とく》|意《い》|先《さき》にまで僕のことを|訊《き》いて回り出した。そうなると父親も放っておけなくなってね。いっそ海外へやろうということになったのさ」
「そう。――でも、ドイツまでは追いかけて行かないわよ、きっと」
「|警視庁《けいしちょう》が|出張費用《しゅっちょうひよう》を出さないだろうな」
和彦が|微《ほほ》|笑《え》みながら言った。
「向うにずっと?」
「行けば二年くらいは帰って来ないだろうな」
「いつ|発《た》つの?」
「|明後日《あさって》」
「そんなにすぐ?」
銀行員は|辞《じ》|令《れい》が出てから、|転《てん》|勤《きん》までの期間が短い。国内なら一週間、海外でもせいぜい半月しかない。
「|特急便《とっきゅうびん》だよ。いかに親父があわてているかだ」
「お父様の気持も分るわ」
「そうだね、僕も……」
「向うで|頑《がん》|張《ば》って仕事をして来てね」
朋子はそう言って、和彦の顔を|覗《のぞ》き|込《こ》むように見つめた。
「本気なのか」
和彦が、急に|恐《おそ》ろしいほど|真《しん》|剣《けん》な顔になって言った。
「何が?――そんなに|怖《こわ》い顔しないで」
朋子は|怯《おび》えて身を引いた。和彦の手が、ほとんど|乱《らん》|暴《ぼう》なほどの勢いで朋子の|腕《うで》をつかんだ。
「|痛《いた》いわ、やめて」
間近に|引《ひ》き|寄《よ》せられて、朋子は、自分の心の|奥《おく》|底《そこ》まで|見《み》|透《すか》すような和彦の|視《し》|線《せん》と相対した。目をそらしたかったが、できなかった。
「僕が親父の話を信じたと思ってるのか。君が金を受け取ったのは僕のためだと分らないと思うのか。君があの金に一円たりと手をつけてないことを、僕が知らないと思うのか!」
血を|吐《は》くような言葉だった。
「だからどうなの?」
朋子が言い返した。それ以上言えば|泣《な》き|出《だ》してしまいそうだった。
「君が行くなと言えば、僕は行かない」
「どうするの? 銀行を|辞《や》める気?」
「それぐらい平気だ。何をやっても食べて行ける」
「そんなことが言えるのは、あなたが苦労して食べて行くことを知らないからよ。そんなに|甘《あま》いもんじゃないわ。分らないの? |私《わたし》はまだまだあなたの銀行に借りを残しているのよ。あなたがそんなことをしたら、あなたのお父さんがどう出て来るか。考えれば分るでしょう!」
和彦の手が|緩《ゆる》んだ。急に力を失ったように、ぐったりと|椅《い》|子《す》に身を|沈《しず》める。
「分ってよ。もうこれ以上、苦しめないで」
朋子は言った。おそらく、和彦が自分よりはるかに苦しんでいることを、知りながら、そう言わずにはいられなかった。
「それなら……」
和彦は弱々しくなった声で、言った。「待っていてくれるかい? 二年か――三年たてば、きっと|僕《ぼく》は|戻《もど》って来る。それまで……」
「|長《なが》|過《す》ぎるわ。あなたも私も変ってるわ、きっと」
「変っていなかったら?」
朋子は、和彦のひたむきな|眼《まな》|差《ざ》しが心を|揺《ゆ》さぶるのを感じた。|彼《かれ》の言う通りにして、どうしていけないのだろう、と思った。
「あなたの気持は|嬉《うれ》しいわ。でも……」
後が続かない。このまま彼にこの身を|委《ゆだ》ねてしまいたいという思いに、|圧《あっ》|倒《とう》されそうだった。
和彦の手が、朋子の手を包んだ。そのぬくもりは、|直接《ちょくせつ》朋子の|胸《むね》にまで|届《とど》くようだった。
そのとき、不意にピーッという、|笛《ふえ》のような音がした。和彦が急いでポケットに手を入れると、
「うるさい|奴《やつ》だな、|畜生《ちくしょう》!」
とポケットベルを止めた。
朋子は、|夢《ゆめ》からさめたように、その音で|現《げん》|実《じつ》に|引《ひ》き|戻《もど》された。そんなことは|不《ふ》|可《か》|能《のう》だ。夢の、また夢でしかない……。
「もう行かなきゃならないんでしょう」
朋子は立ち上って、|窓《まど》|辺《べ》へと歩いて行った。
「ねえ、君は――」
「もう行って。やっぱりだめだわ。私にはそんなことを考えてる|余《よ》|裕《ゆう》はないもの」
またポケットベルが鳴った。和彦はそれを止めると、深く息をついた。
「僕は|諦《あきら》めないからね」
朋子は|黙《だま》って表へ向いて立っていた。
和彦が、静かに会議室を出て行き、ドアが|閉《し》まった。
外は、雪が|舞《ま》っていた。いつの間にか、|本《ほん》|格《かく》|的《てき》な雪になって、時に|視《し》|界《かい》を|遮《さえぎ》るほどの、|濃《こ》い|密《みつ》|度《ど》で|眼《がん》|前《ぜん》を流れ落ちて行く。
急速に気温が下がったのか、窓の下から|吹《ふ》き|上《あ》げる|暖《だん》|房《ぼう》の風に、窓ガラスが白く、|帯状《おびじょう》に|曇《くも》っていた。朋子は手で曇りを|拭《ぬぐ》った。|濡《ぬ》れて|歪《ゆが》んだ|遥《はる》か下の道を、車が|駆《か》け|抜《ぬ》けて行く。その中に、和彦の乗った車があるかもしれない、と思った。
拭った|跡《あと》から、|水《すい》|滴《てき》が二つ三つ、|涙《なみだ》のように伝い落ちて行った。
3
雪の中を、朋子は、久米と美幸のいるアパートまでやって来た。
|目《め》|白《じろ》駅から十五分ほど歩く、|私《し》|立《りつ》学校の|裏《うら》|手《て》。朋子のいるアパートよりは大分静かで、いい|環境《かんきょう》である。
しかし、夜、こうして雪の中を来てみると、ずいぶん|寂《さび》しい、遠い所のような気がするのだった。アパートそのものの|造《つく》りは、ごくありふれていて、朋子のアパートと大差なかった。
久米と美幸がいるのは、二階の一室である。|階《かい》|段《だん》が外にある造りで、そこにはもう、雪が|薄《うす》く積っていた。
二階へ上って行くと、美幸の部屋のドアが開くのが見えた。
「寒いから、気を付けて」
美幸の声。「足もと、|危《あぶ》ないからね」
出て来たのは、父だった。
朋子は反射的に、二階通路の反対側の|奥《おく》へと進んでいた。上の明りが消えて、|薄《うす》|暗《くら》がりになっている。
父は、コートのえりを立て、|傘《かさ》を手に、階段をゆっくりと|降《お》り始めた。下へ着くと、傘を広げて、歩いて行く。
美幸は通路に立って、父に手を|振《ふ》った。父も振り向いて手を上げて見せた。美幸は、寒そうに|肩《かた》をすぼめながら、父の|姿《すがた》が道の角に消えるのを|見《み》|届《とど》けて、部屋へ|戻《もど》ろうとした。
朋子が歩いて行くと、美幸はドアに手をかけたまま、立ちすくんだ。
「お姉さん……」
「どういうことなの、美幸」
朋子には|怒《おこ》るだけの|余《よ》|裕《ゆう》もなかった。ただ、信じ|難《がた》い思いで、|呆《ぼう》|然《ぜん》としているばかりである。
美幸が|黙《だま》っていると、中から、
「どうしたんだ?」
と、久米が顔を出した。「お姉さんですか。――ともかく入ってもらえよ、ここじゃ話もできない」
久米は、どんなときでも、あわてることのない|性《せい》|格《かく》らしかった。
「お父さんがどこに住んでるかは知らないわ。本当よ」
美幸は言った。久米がお茶を|淹《い》れて来た。
「うちのお茶は安物で……。寒いでしょう、|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「ええ、ありがとう」
朋子は、少し間を置いて、言った。「じゃ、お父さん、何度もここに来ているのね」
「あまり|彼女《かのじょ》を|叱《しか》らないで下さい」
久米が少しも変らない、おっとりした口調で言った。「末っ子は――|特《とく》に女の子は父親に愛着がありますからね。それに、お姉さんのように、|辛《つら》い目にはあって来ていないわけですから、お父さんを|恨《うら》むという気になれないんでしょう」
「それは分るけど、どうして|私《わたし》に何も言わなかったの?」
「お姉さん、|凄《すご》く|怒《おこ》ってたし――お父さんのこと。私だってね、恨まなかったわけじゃないわ。でも、人を|好《す》きになるって、本人の|意《い》|志《し》だけじゃどうしようもないことがあるんじゃない? お父さんだってそう思うの」
「そりゃ、あなたのように|若《わか》ければ仕方ないと思うわよ。でも、家族もあり、社会的な立場もある人が――」
「何かわけがあったのよ。お父さんは|訊《き》かないでくれと言っていたけど、何となく分るの。何かよほどの|事情《じじょう》があるんだわ」
「それだけであなたは|納《なっ》|得《とく》してるの?」
「そう……。だって、仕方ないじゃない。お父さんだって、お姉さんにも会いたいのよ。でも、|済《す》まないと思ってるから、|申《もう》し|訳《わけ》ないと思ってるから、顔を合わせられないんだわ」
「ここへ何しに来るの?」
「別に。ただ――顔を見に。それにお姉さんの所は|警《けい》|察《さつ》の人がいるじゃないの。それも知ってるから、行きたくても行けないんだわ」
朋子は深々と息をついた。――美幸には美幸の考え方がある。それをとやかく言うつもりはなかった。
「でも、あなただって警察が目をつけないとは|限《かぎ》らないのよ。|危《き》|険《けん》は同じじゃないの」
と朋子が言った。
美幸は|黙《だま》っていた。
「ともかく――」
と久米が口を|挟《はさ》んだ。「僕もお父さんはそう|簡《かん》|単《たん》に家族を放ったらかすような人だとは思えませんね。まあ、何度かお話しただけですが」
「お父さんに|連《れん》|絡《らく》が取れるの?」
「いいえ。知らない方がいいって。――どうして?」
「会って話してみたいの」
「でも――」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。|充分《じゅうぶん》気を付けるから。別に|喧《けん》|嘩《か》しようというんじゃないの。ただ話がしたいのよ」
朋子は本当に、父に会ってみたくなったのである。父への|怒《いか》りが消えたわけではないが、父の|秘《ひ》|密《みつ》、父が|黙《もく》して語らないそれ[#「それ」に傍点]は何なのか、知りたかった。知る|権《けん》|利《り》がある、と思った。
「でも、本当に分らないんです」
と、久米が言った。「分れば、|却《かえ》って|僕《ぼく》らに|迷《めい》|惑《わく》がかかるとおっしゃって、教えてくれません」
「じゃ、会いに来るのは、いつも向うからだけ?」
「|明後日《あさって》、またみえるとおっしゃってましたが」
「明後日?」
「お姉さん来てれば? いつも大体七時|頃《ごろ》よ」
「そうね。――そうするわ」
と朋子は|肯《うなず》いた。
何となく、ホッとした|雰《ふん》|囲《い》|気《き》になって、|誰《だれ》もが一息ついた。
「お姉さん、夕ご飯まだ? じゃ、|一《いっ》|緒《しょ》に何か取って食べよう」
美幸がいつもの調子に|戻《もど》って、「寒いからうどんか何かがいいわ」
「おい、今夜は何か作るんじゃなかったのかい?」
「いいじゃない、お姉さん来たんだから」
「|払《はら》わせれば、でしょ」
朋子はそう言って|笑《わら》った。
アパートから帰ったのは、もう夜中だった。早目に美幸たちのアパートを出たのだが、雪が|降《ふ》りやまず、駅までの道が三倍も時間を食って、しかも、電車のダイヤが|大《おお》|幅《はば》に|狂《くる》っていたのである。
東北あたりなら雪とも呼ばないほどの積雪で、たちまち|混《こん》|乱《らん》する大都会。――それはどことなく、|平《へい》|穏《おん》に見えて|脆《もろ》い家族を想わせた……。
電車の数が|極端《きょくたん》に|減《へ》ったのと、そろそろ|忘《ぼう》|年《ねん》|会《かい》などのシーズンで、帰りの|遅《おそ》いサラリーマン、OLが増えているせいもあるのだろう。ホームは人で|溢《あふ》れて、来た電車にも乗り切れないほどだった。
朋子は美幸のアパートへ|戻《もど》ろうかとも思ったが、あの雪の道を歩くことを考えると、それもうんざりだった。それに、もうホームから|改《かい》|札《さつ》|口《ぐち》へ戻るのも、|容《よう》|易《い》ではないほど人がびっしりと|詰《つ》まっていたのだ。やっと電車が来ても、どの駅も同じような|状態《じょうたい》らしく、乗れるのはほんの何人かで、ほとんどが取り残されてしまう。
朋子は|疲《つか》れ|切《き》って、もうこのまま|倒《たお》れてしまいたい、とさえ思った。和彦との話、父の|姿《すがた》を見たこと、美幸の話……。あれこれ考えるのに、もう疲れてしまった。
どうして自分だけがこんな思いをしなくてはいけないのだろう、と思った。もちろん、このホームにいる一人一人、|誰《だれ》もが|苛《いら》|立《だ》ち、疲れて、同じことを考えているのかもしれなかったが、頭でそう分っても、それを体が|納《なっ》|得《とく》していなかった。
また電車が来て、|扉《とびら》が開いた。朝の|混《こん》|雑《ざつ》もこれほどではない。とても乗れそうもない、と朋子は思った。どうせなら|一晩中《ひとばんじゅう》電車が空くまで待っていてやろうか、と|自虐的《じぎゃくてき》に|苦《にが》|笑《わら》いしていると、いきなり、後ろから|物《もの》|凄《すご》い力で|押《お》された。足がもつれそうになって、|辛《かろ》うじて電車へ|片《かた》|足《あし》をかける。
列の後ろにいた三、四人の|男《だん》|性《せい》が、何が何でもこれに乗ろうとしたのだ。――声も上げられないほどの力で、電車の中へ|押《お》し|込《こ》まれた。息が|詰《つ》まる。|一瞬《いっしゅん》、|恐怖《きょうふ》すら感じた。
ドアが、引っかかりながら、何とか|閉《と》じると、少し、|圧《あっ》|迫《ぱく》|感《かん》は軽くなった。|冷《ひや》|汗《あせ》が|額《ひたい》からこめかみを伝って行った。あのとき転んでいたらどうなったか、考えても|恐《おそ》ろしい。――体が、ねじれたままだったが、向き直ることもできない。
新宿駅に着くまでは、死ぬ思いだった。
――その先も、順調には行かなかったが、ともかくそれほど|混《こん》|雑《ざつ》していないのが救いだった。
タクシーとも考えたが、どうせいつ乗れるとも知れない行列だろう。
やっと電車が来たのは、三十分も待ってからだった。しかし、いつもの|山手《やまのて》|線《せん》の混雑が|嘘《うそ》のように思えるほど、こっちは空いていた。一駅だけだが、ともかく空席に|腰《こし》をおろして、全身で息をついた。このまま終点まで乗っていたいと本気で考えた。
しかし、大久保駅へ着くと、さすがに体の方がごく自然に動く。いつしか、雪が|溶《と》けて水びたしのホームへ|降《お》り立っていた。
他に|一《いっ》|緒《しょ》に降りた二、三人の客も、駅前から別の方へと|去《さ》って、朋子はアパートへの道を、雪に足を取られそうになりながら、歩いて、行った。
|頬《ほお》と、|爪《つま》|先《さき》が感覚を失うほど冷たい。コートなど何の役にも立っていないと思えるほど、体の|芯《しん》まで冷え切っていた。
足を動かしているのは、わずかに、アパートまでもう少しだという気持だけだ。――やっとの思いでアパートの中へ入ったとき、どっと|疲《つか》れが|押《お》し|寄《よ》せて来た。
部屋へ入って、コートを|脱《ぬ》ぎ、ストーブにかじかんだ手で火を|点《つ》けると、じっとうずくまるようにして、|暖《あたた》まるのを待った。やがて、少しずつ、手足に感覚がチクチクと|刺《さ》すようによみがえってきて、やっと大きく息をつく。まだ|吐《は》く息が白かった。
|眠《ねむ》|気《け》がさして来て、朋子は横になった。――このまま眠っちゃいけない。ちょっと休むだけ……。そして、一分としない内に|眠《ねむ》り|込《こ》んでいた。
目を覚ましたのは、電話の音だった。
「あ――いけない」
起き上って、思わず|呟《つぶや》く。電話が鳴っている。頭を|振《ふ》って、はっきりさせてから受話器を上げた。
「村山です」
「いたのか」
男の声だ。「|息子《むすこ》がいるだろう」
|詰《きつ》|問《もん》するような口調だった。田沢の声だ。
「あの――和彦さんが何か?」
「そこへ行っていないか」
「いいえ。どうなさったんですか?」
「――今日息子に会ったのか?」
少し|抑《おさ》えた声で|訊《き》いて来る。
「あの……|私《わたし》の会社へおみえになりましたので」
「何を話した?」
「何、と言って……。ドイツへ|転《てん》|勤《きん》になるとうかがいました」
「他に何か言っていなかったか」
朋子は少しためらって、
「ドイツから|戻《もど》るまで待っていてほしいとおっしゃいました。私はそれはできないとお答えしましたけれど……」
「いい|加《か》|減《げん》なことを言うな!」
田沢は|激《げっ》|昂《こう》している様子だった。
「どういう意味ですか?」
「二人で|逃《に》げる相談をしたのだろう」
「逃げる? 和彦さんがいらっしゃらないんですか?」
「知らんというのか」
「知りません」
「ふん、ともかく、そんな|真《ま》|似《ね》はさせない。もしそこへ行ったら、よく言ってやれ」
「ここにはおいでにならないでしょう」
「分るものか。いや――そこへ行かないはずがない」
「いつ、いなくなったんですか?」
「さっきまで分らなかった。雪だから心配して|家《か》|内《ない》が銀行へ電話して――」
そこで田沢は言葉を切った。「ともかく今からそっちへ出向く」
「田沢さんがですか?」
「あいつは必ずそこへ行く。いいか、|息子《むすこ》と|一《いっ》|緒《しょ》に|行方《ゆくえ》をくらまそうなどとしたら……」
田沢は|脅迫《きょうはく》まがいの言い方をして、「分ったな! そこから動くなと言え!」
と、|叩《たた》きつけるように電話を切った。
朋子は、しばらく受話器を|握《にぎ》ったまま|呆《ぼう》|然《ぜん》としていたが、やがて、何か冷たい風が流れて来るのに気付いて、|振《ふ》り|向《む》いた。|玄《げん》|関《かん》のドアが開いて、和彦が立っていた。
「どうしたの?――そんなにびしょ|濡《ぬ》れで――早く上って!」
「親父から?」
「ええ、今からこっちへみえるって。でも、この雪ですもの、時間がかかるわ。さあ、早く|脱《ぬ》いで。――|風邪《かぜ》引くじゃないの」
和彦は|背広姿《せびろすがた》で、|鞄《かばん》をそこへ放り出して|座《すわ》り|込《こ》んだ。
「――銀行の通用口から出て来てしまったんで、|傘《かさ》もコートもなかったんだ」
「まあ、|無《む》|茶《ちゃ》をして……。真っ青じゃないの。こんなに|震《ふる》えて」
朋子はバスタオルを持って来た。「今、お|風《ふ》|呂《ろ》を|点《つ》けたわ。|沸《わ》くまでこのストーブの前で|暖《あたた》まっていて」
和彦は上衣とワイシャツを|脱《ぬ》ぎ|捨《す》てた。しかしシャツまで水が|浸《し》み|通《とお》っている。
「|困《こま》ったわ。男物の|替《か》えはないし……。ともかく脱いで。ストーブの前で広げて|乾《かわ》かすから……」
シャツを脱ぐと、和彦の、|滑《なめ》らかな上半身が|現《あらわ》れた。朋子はふっと目をそらして、シャツを受け取ると、ストーブの前に広げて置いた。
「ともかくこうしておけば――」
朋子を、和彦の|腕《うで》が後ろから|抱《だ》き|締《し》めた。
「和彦さん……」
急に全身の力が脱け落ちて行くようだった。振り向いた朋子は和彦の腕の中に身を|委《ゆだ》ねた。
明りが消えて、ストーブの赤い火が、二人の|肌《はだ》を照らし出した。
「――どれくらいたった?」
朋子は|訊《き》いた。
「三十分ぐらい」
和彦は|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見て言った。
「腕時計したままだったの? どうりで|痛《いた》かったわ」
と朋子は|笑《わら》った。
「外すのが|面《めん》|倒《どう》だったんだ」
「まだ来ないわね。お父さん」
「この雪だ。一時間じゃ着かないよ」
和彦は|裸《はだか》の朋子を|抱《だ》きしめた。「――もう|逆戻《ぎゃくもど》りはできない。君も分ってくれるだろう?」
「あなた、どうかしてるわ」
「どうもしてない人間なんていやしないさ」
「家族も、仕事も、全部|捨《す》てるつもり?」
「そんなものが何だい? |予《あらかじ》め|約《やく》|束《そく》されて、決められたコースを|突《つ》っ|走《ぱし》って、何になる? |僕《ぼく》はごめんだ。人間らしく生きたい」
「どうするの?」
「二人でどこかへ行こう。何をしたって|暮《くら》して行くぐらいのことはできるさ」
「でも……」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。|任《まか》せておけよ」
和彦は立ち上って明りをつけた。
「やめてよ!」
朋子があわててバスタオルを体に|巻《ま》いた。「もうお|風《ふ》|呂《ろ》が|沸《わ》いてるわ。入って来たら?」
「うん。さっと浴びるだけだ。親父が思ったより早く着くといけないからな」
「そうね。私もそうするわ」
「|一《いっ》|緒《しょ》に入ろう」
「そんな|狭《せま》い所、二人で入ったらお湯が|溢《あふ》れちゃって大変よ」
と朋子は|笑《わら》った。
和彦が浴室に|姿《すがた》を消すと、朋子はその場に|座《すわ》り|込《こ》んだ。――ふと顔を一面鏡の方へ向ける。バスタオル一つで座っている自分が、何となくこっけいに思えて、朋子は笑ってしまった。
「もう|疲《つか》れた……」
と、|呟《つぶや》いた。
ここまで一人で|頑《がん》|張《ば》って来たのだ。和彦が自分でああ決めたのなら、それについて行ってもいい、と思った。
身も心も疲れ切った中で、和彦に|抱《だ》かれて、朋子は、初めて|彼《かれ》とどんなに|離《はな》れ|難《がた》くなっているかに気付いた。何もかも|忘《わす》れて、|一《いっ》|切《さい》と|縁《えん》を切って、二人きりで|暮《くら》して何が悪いことがあるだろう。
――ふと、朋子は、父もこんな気持だったのかしら、と思った。何十年間、家族のために働き続けた父が、ある日、|総《すべ》てを|捨《す》てて|駆《か》け|出《だ》したくなったのかもしれない。
それならば、父の気持は分らないでもなかった。それが|許《ゆる》されることなのかどうかは|別《べつ》として、道徳や|理《り》|性《せい》とかけ離れた所で、|突《とつ》|然《ぜん》人生を|駆《か》け|抜《ぬ》けて行きたくなる――そんなことが、人間にはあるのではないだろうか……。
|風《ふ》|呂《ろ》から水のはねる音が聞こえた。
朋子はふと、和彦のほうり出した|鞄《かばん》に目を止めた――。銀行員だわ、本当に。あんな鞄を持って来て。何を入れて来たのかしら、と朋子はちょっと|好《こう》|奇《き》|心《しん》に駆られて、立って行った。
中を開けて、|探《さぐ》ってみる。書類のようなものだが。――取り出してみて、朋子は冷水を浴びせられたような気がした。
それは一万円|札《さつ》の|束《たば》だった。
「――さっぱりしたよ」
和彦が|風《ふ》|呂《ろ》から|上気《じょうき》した顔で出て来た。
「寒いわよ。何とか下着も|乾《かわ》いたみたいだから早く着て」
「ああ。君も入って来いよ」
「ええ」
朋子はバスタオルを和彦へ|渡《わた》して、自分は浴室へ入って行った。湯船に身を|沈《しず》めて、熱い湯がしみ|込《こ》んで来るのに身を|任《まか》せながら、
「――和彦さん」
と|呼《よ》んだ。
「何だい?」
ワイシャツのボタンをとめながら、和彦が顔を出す。
「ねえ、ちょっと考えたんだけど、このまま行っちゃうわけにはいかないわ、|私《わたし》」
「どうして?」
「お金もないし、それに妹のことがあるでしょう」
「お金なら――」
と言いかけて、和彦がためらった。
「あなたの持ち合せだって、たかが知れてるでしょ。私も、少しは|貯《ちょ》|金《きん》があるから、明日おろして来ようと思うの」
「|大丈夫《だいじょうぶ》かい? 親父が――」
「あなたがここへ来なかったと|言《い》い|張《は》れば、お父様だって|嘘《うそ》だとは言えないはずよ」
「そりゃそうだけど。|僕《ぼく》はどうすればいいんだい?」
「悪いけど、どこかに|泊《とま》って。今日は雪だもの、サラリーマンの人が一人で旅館に行っても、雪で帰れなかったんだな、と思われるわよ」
「どこに泊るんだい?」
「この駅の近くは旅館が|沢《たく》|山《さん》あるのよ」
「そうか。――じゃ、君も|一《いっ》|緒《しょ》に来ればいいじゃないか」
「|馬《ば》|鹿《か》ねえ。お父様がみえたとき、私がここにいなかったら、一緒に|逃《に》げたと|疑《うたが》われるに決まってるじゃないの」
「そりゃまあそうだね……」
「明日一日待って。お金をおろして、色々と|雑《ざつ》|用《よう》を|片《かた》|付《づ》けてしまうから」
「君一人で大丈夫?」
「お父様にまた言いくるめられるんじゃないかと心配なの?」
「そうじゃないけど……」
「どうせ|明後日《あさって》が出発日でしょ? だったら私もそうする。ただ、フランクフルトの代りに、どこか名もない所へと出発すればいいわ」
和彦はちょっと不安そうだったが、
「分ったよ。明後日はどこにいればいい?」
「そうね。どこへ行くかにもよるでしょ?」
「それもそうだ。そいつを決めなきゃ」
と和彦は|笑《わら》った。
「じゃ、この前、私と父が会った所――|憶《おぼ》えてる?」
「|個《こ》|室《しつ》|喫《きっ》|茶《さ》?」
「そう。ああいう所が一番目に付かないんじゃない?」
「よし。それじゃ、明後日の――」
「夕方にしましょう。目立たないように。五時ならもう暗いわ」
「分った。じゃ、親父が来るといけないな」
「そう。もう行って。私もすぐ上るから。――あ、寒いから、私のコート、着て行ったら?」
「いらないよ」
和彦は|弾《はず》んだ声で言った。「体中が|燃《も》えるぐらい熱いよ」
「じゃ、せめて|傘《かさ》を持って行って。またびしょ|濡《ぬ》れじゃ二枚目|台《だい》|無《な》しよ」
「分ったよ」
和彦は|玄《げん》|関《かん》へ行って、「どこにあるんだい?」
と声をかけた。
「左に|棚《たな》があるでしょ。その二段目に|折《お》りたたみの傘が。――女物だけど茶色だから」
|風《ふ》|呂《ろ》の中から、朋子は答えた。
「あ、これか。じゃ、借りて行くよ」
「気を付けてね」
「|明後日《あさって》だね」
「五時にね」
「必ず来るんだよ」
「分ってるわ」
ドアを開く音がした。そして|閉《と》じる音。足音が、|微《かす》かに聞えていたが、やがて、それも消えた。
朋子は、ゆっくり風呂から上った。部屋へ|戻《もど》ると、和彦の使ったバスタオルが、そのまま|畳《たたみ》の上に落ちている。それを拾い上げて、朋子はゆっくりと体を|拭《ぬぐ》った。
体が|乾《かわ》くと、スカートと|分《ぶ》|厚《あつ》いセーターを|着《き》|込《こ》んで、畳に|座《すわ》り|込《こ》んだ。
目は前方を向けて、しかし、ずっとずっと遠いどこかを見つめていた。
時計の、秒を|刻《きざ》む音だけが、耳に|届《とど》いた。もうすぐ二時になる。
|遅《おそ》い。――一体いつになったら、やって来るのだろう?
その心の中の|呟《つぶや》きが終らない内に、ドアにノックの音がした。
「どうぞ」
と朋子は言って、|背《せ》|筋《すじ》を伸ばして座り直した。
ドアが開いて、父が立っていた。
4
「帰ってから、思い出したことがあってな、美幸の|奴《やつ》に電話したんだ」
コートのまま座り込んだ村山は言った。「そうしたら、お前が会いたがっていたと言うんでな……」
朋子は、雪の中をやって来た父をじっと見つめて、口を開かなかった。
村山は頭を下げた。
「お前にとんでもない苦労をかけて、すまないと思ってる」
「もういいの。|済《す》んだことだわ」
村山はびっくりしたように顔を上げた。
「|私《わたし》を|恨《うら》んでいないのか」
「お母さんは、お父さんを一度も恨んだりしなかったわ」
朋子は、|微《ほほ》|笑《え》んだ。「それなのに私がお父さんを恨むなんておかしいわよね」
「お母さんは|立《りっ》|派《ぱ》な人だった」
村山は、大きく息を|吐《は》き|出《だ》した。「私が生きていて、お母さんが死んでしまう。――世の中は不公平にできてるんだ」
「ねえ、お父さん」
朋子は言った。「教えて。|宮《みや》|島《じま》|裕《ゆう》|子《こ》さんっていうのは、どういう人なの? お父さんが何年も前から銀行のお金を使っていたのはなぜ? |彼女《かのじょ》と知り合ったのは、ほんの一年くらい前でしょう」
村山はためらいがちに目を|伏《ふ》せた。朋子は続けて言った。
「さっき言った通り、お母さんも、お父さんのことを恨んではいなかったし、私も、今さらあれこれ|責《せ》めようとは思わない。でも、自分が何のために|辛《つら》い思いをして来たのか。――それが知りたいの。別に|立《りっ》|派《ぱ》な理由でなくたっていいのよ。その女の人が、|凄《すご》く|魅力的《みりょくてき》で、お父さんが、地位も家庭も|総《すべ》て投げ打ってしまっても|構《かま》わないと思ったのなら、それでいいの。ともかく、本当のことが知りたいの」
村山は、なおしばらく|黙《だま》り続けていたが、やがて|娘《むすめ》の|眼《め》を真直ぐに見つめて、
「美幸には、まだ黙っていてくれ」
と言った。
「|約《やく》|束《そく》するわ」
朋子は|肯《うなず》いた。
「宮島裕子は私の娘だ」
朋子は目を|見《み》|張《は》った。
「――私には、お母さんと|一《いっ》|緒《しょ》になる前、愛していた女がいた。彼女は私が|勤《つと》めていた銀行の支店に、いつも父親の店の売上げを|預《あず》けに来ていた。ちょっとしたことで言葉をかけ合い、やがて愛し合うようになった。しかし……当然のことながら、家では、他の話を進めていて、それがお母さんだったのだ」
「お父さんは、その|女《ひと》を|捨《す》てたの」
「いや、私は、銀行のエリートになるよりも、彼女と|暮《くら》すことの方を選んでも良かった。ところが、ちょうど、その娘の親の店が|破《は》|産《さん》してしまったのだ。うちの支店からの|貸《かし》|付《つけ》|金《きん》はそのまま|欠《けっ》|損《そん》になってしまった。その父親は自殺、娘は自分から|姿《すがた》を消して、|行方《ゆくえ》が分らなくなったのだ」
「それでお母さんと――」
「そう。もちろん、お母さんはあの通り、|立《りっ》|派《ぱ》な人だ。世間の|垢《あか》にまみれない、気高いものを持っていた。やがてお前も生れ、私はもうあの|娘《むすめ》のことは|忘《わす》れかけていた」
「その彼女が|戻《もど》って来たのね」
「|偶《ぐう》|然《ぜん》のことで出会ったのだ。私は、一時、|金《かな》|沢《ざわ》の支店へ行った。お前が小学校へ入る直前で、|転《てん》|居《きょ》も|可哀《かわい》そうだと、単身でそこへ行った。金沢の小さな料理屋で、その女に会ったのだ」
「じゃ、お父さんの娘というのは……」
「彼女が私の前から姿を消す前の夜、彼女は進んで私に|抱《だ》かれた。初めてのことだったが、そのとき、彼女は私の子をみごもった」
「じゃ、一人で生んで……?」
「母親はもうずっと前に死んでいたから、一人で生み、育てていたわけだ。それだけに、もともとあまり|丈夫《じょうぶ》でない体を、大分いためてしまっていた。――私は、単身でいた|寂《さび》しさもあったのかもしれないが、しばしば彼女の所へ行くようになった。|経《けい》|済《ざい》|的《てき》にも、あれこれとやりくりして、助けてやった。私が東京へ戻って来たとき、彼女も娘を連れて、|一《いっ》|緒《しょ》に上京して来た」
「それ以来ずっと――」
「東京へ|戻《もど》ってからは、|専《もっぱ》ら経済的な|援《えん》|助《じょ》だけをした。お母さんを|裏《うら》|切《ぎ》ることはできなくてね」
「それで銀行のお金を?」
「いや、とんでもない。あくまで|私《わたし》のポケットマネーだけだ。まだ彼女も楽な仕事ならできたし、|子《こ》|供《ども》一人、成長しても、そうかかるものじゃない」
「それがなぜ?」
「彼女が|倒《たお》れたのだ」
村山は暗い|表情《ひょうじょう》になった。「|白血病《はっけつびょう》、ということだった。大がかりな|治療《ちりょう》が必要で、それでなければ、一、二年の命と言われた」
村山はふっと息をついた。
「私のせいだった。私との間にできた子供を育てるために、|無《む》|理《り》に無理を重ねたのだ。何としても助けてやりたいと思った。――有名病院で最高の治療を受けさせれば、月に何十万、時には百万円近い金がかかる。それを私のポケットマネーでまかなうことは|不《ふ》|可《か》|能《のう》だ」
「お母さんに話せば良かったのに」
「そう。――|普《ふ》|通《つう》のときなら、そうしただろう。お母さんも、|許《ゆる》してくれたかもしれないな。しかし、そのときは――お前たちにも言わなかったが――お母さんの|心《しん》|臓《ぞう》はひどく悪かったのだ。とてもそんな話を切り出すことはできない。私は|困《こま》り|果《は》てた。そして……ついに銀行の金を、ほんのしばらくの間、というつもりで使ってしまった。一度が二度になり、三度になる。お母さんの心臓も、|回《かい》|復《ふく》しかけては悪くなる、くり返しで、話すきっかけも失われて行った……」
父のような、|優《やさ》しい人間は、またどうしても|誰《だれ》にでも気を|遣《つか》うために、|優柔不断《ゆうじゅうふだん》な|性《せい》|格《かく》でもある。父のその気持は、朋子にも良く分った。
「それで、その|女《じょ》|性《せい》は?」
「結局、治療で何年か生きのびたが、死んでしまった。三年前のことだ」
「|娘《むすめ》さん――宮島裕子という人は?」
「裕子は、もともとは私を|嫌《きら》っていた。お前にも|想《そう》|像《ぞう》はつくだろう。母親を囲っている男が娘からどう見えるか」
「ええ、分るわ。反発して当然ね」
「母親が死んだ後、裕子はどこかへ行ってしまった。私は必死に|捜《さが》した。そして捜し当てたのは、何とうちの銀行が時々|接《せっ》|待《たい》に使うクラブだった……」
村山は首を|振《ふ》って、「|因《いん》|縁《ねん》とでもいうのかな。――裕子の方も、私を見て|驚《おどろ》いたが、それまでにずいぶん苦労したらしい。もう私を|憎《にく》んではいなかった。私はたまに裕子のいるアパートへ顔を出したりしていたのだ。ところが……裕子は客の一人と関係を持って|妊《にん》|娠《しん》していた。裕子は|真《しん》|剣《けん》だったのだが、相手は遊びのつもりでいたのだ。裕子は男を|刺《さ》してけがをさせ、私の所へ電話して来た」
「銀行へ?」
「そうだ。男を殺した、と言った。――|実《じっ》|際《さい》はけがをさせただけで、男の方も体面があるので、|警《けい》|察《さつ》へも|届《とど》けなかったのだが、私は裕子の言葉を信じた。もとはといえば、私の|過《あやま》ちから生れた|娘《むすめ》だ。そうなったのも、|責《せき》|任《にん》の一半は私にある。もう|子《こ》|供《ども》も|堕《おろ》せない時期になっていた。私は、裕子を|逮《たい》|捕《ほ》させたり、|裁《さい》|判《ばん》にかけ、|監《かん》|獄《ごく》にやることはとてもできなかった。この手で守ってやらなくてはならない、と思った……」
おそらく、裕子という娘の立場が、かつての母親のそれと|似《に》ていることが、|一《いっ》|層《そう》、父に|罪《つみ》の|意《い》|識《しき》を負わせたのだろう、と朋子は思った。
「分ったわ。それで、銀行からいくらかのお金を持ち出して、|逃《に》げたのね。――後で、裕子さんの方は何でもないことが分ったけれど、今度はお父さんが|戻《もど》るに戻れないようになってしまった……」
「それに裕子には|頼《たよ》って行く親類も何もないのだ。子供が生れるまでは、ともかく、|捕《つか》まるわけにはいかなかった」
「それで、もう生れたんでしょう?」
「ああ。元気に育っているよ」
父の顔に、やっと|微笑《びしょう》が|浮《う》かんだ。「生れてみると、今度はその子のために、もう少し|逃《に》げていなくてはならない、と思った。いつまでもは続くまい。しかし、裕子が、一人で子供を育てられるようになる日までは……」
「逃げればいいわ」
朋子は言った。「逃げて逃げて――|警《けい》|察《さつ》が|諦《あきら》めるまで逃げていればいいじゃないの」
「本気で言ってるのか?」
「もちろんよ」
二人は顔を見合わせて、|笑《わら》った。
「――聞いてよかったわ」
と朋子は言った。
「分っても、お前や美幸にかけた苦労が軽くなるわけじゃない。本当に|済《す》まん」
「いいのよ」
朋子は、明るい口調で言った。「お父さんはお父さんなりに|誠《せい》|実《じつ》な生き方をしてるんだもの。お母さんも、それは信じていたのよ、きっと」
「そうかもしれないな」
父がゆっくり|肯《うなず》く。朋子は、|瞼《まぶた》に熱いものが|浮《う》かぶのを感じて、あわてて、
「お茶を|淹《い》れ直すわね」
と立ち上った。
「もういいよ。もう帰らなくちゃ。裕子が心配する」
「そう? じゃ、気を付けて。おじいちゃんだものね」
「人をからかうな」
父と|冗談《じょうだん》を言い合って、朋子は|胸《むな》|苦《ぐる》しいほどの|懐《なつ》かしさを感じた。
「|長《なが》|靴《ぐつ》なのね。用心深く」
「ああ。この|背《せ》|広《びろ》が一つきりだからな。|汚《よご》しちゃ大変だ」
「住いや電話は|訊《き》かないわ。でも用があったら、いつでも|呼《よ》んで」
「ありがとう」
村山はドアを開けた。
田沢が立っていた。
「田沢さん――」
父が言いかけるのを|遮《さえぎ》って、朋子は前へ出ると、
「|私《わたし》が話すわ。お父さん、中へ入って」
と言った。
「しかし、朋子、これは――」
「いいの。私と田沢さんの話なんだから。お願い。ここは|任《まか》せて」
村山は、ためらいながら、|肯《うなず》いて部屋の中へと|戻《もど》った。朋子はドアを|閉《し》めると、
「――和彦さんはいません」
と言った。
「そうらしいな。しかし、君のお父さんの声は外で聞いたぞ」
朋子は、ハッとして、アパートの入口の方へ目を向けた。雪の白さに、赤い|灯《ひ》の|点《てん》|滅《めつ》が|映《は》えていた。
「ちょうどやって来たらしい」
田沢は言った。「さっき、ここで話し声を聞いて、すぐ電話したのだ。悪く思わんでほしいね」
朋子の顔から血の気がひいた。
「田沢さん、|警《けい》|察《さつ》の人に|間《ま》|違《ちが》いだったと言って下さい」
「そんなことができると思うかね?」
「代りに和彦さんを|取《と》り|戻《もど》せるのならどうですか」
「ここへ来たのか」
「明後日、会って遠くへ行く|約《やく》|束《そく》です」
「そんなことはさせん! どこにいるんだ!」
田沢が|詰《つ》め|寄《よ》って来る。アパートの入口に、男の|姿《すがた》が|現《あらわ》れた。
「警察の人に言って下さい。人違いだった、と」
「|馬《ば》|鹿《か》を言うな!」
「和彦さんが銀行の大金を|盗《ぬす》んだことも、馬鹿げたことで|済《す》みますか」
田沢の顔がこわばった。二人の|視《し》|線《せん》がぶつかり合った。
息を殺して、朋子は、じっとそれに|堪《た》えていた。
「田沢さんですね」
声をかけて来たのは、あの|若《わか》い|刑《けい》|事《じ》だった。
田沢は|振《ふ》り|向《む》いた。
朋子は|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見た。四時半だった。
もう暗くなりかけた空は、|紫色《むらさきいろ》に変っていた。雪が、そこここに残って、|凍《こお》りついている。あわて者が時々|滑《すべ》って|尻《しり》もちをついては、照れくさそうに立ち上って、足早に|去《さ》って行く。
風が強かった。――冷たい、しびれるような風だった。
朋子はコートのポケットへ手を|突《つ》っ|込《こ》んで、あの|個《こ》|室《しつ》|喫《きっ》|茶《さ》のドアを|押《お》した。
「いらっしゃいませ」
|週刊誌《しゅうかんし》を読んでいた男が立ち上った。
「こちらへどうぞ」
空いた部屋の一つへ案内されると、朋子は、五千円|札《さつ》を男に|握《にぎ》らせた。
「後で、連れが来るの。私は朋子。来ているかって|訊《き》かれたら、まだ来ていないと言って、この|隣《となり》の部屋へ案内して」
「はあ……」
と不思議そうに言ったが、|別《べつ》に|難《むずか》しい注文でもない。「分りました」
と|会釈《えしゃく》して|戻《もど》って行く。
朋子は、コートを|脱《ぬ》いで、ソファに置いた。|雑《ざっ》|誌《し》も何もない。――それはそうかもしれない。そんなことのためにここへ来る客はいないだろうから。
ソファに|座《すわ》って、朋子はぼんやりと、|薄《うす》|汚《よご》れた|天井《てんじょう》を見上げた。
照明も薄暗く、|暖《だん》|房《ぼう》は暑いくらいきいている。――よくこんな所で、|恋《こい》|人《びと》|同《どう》|士《し》とはいえ時を|過《す》ごす気になるものだ。
二十分が過ぎた。
「こちらへどうぞ」
さっきの男の声がして、隣のドアが開いた。
「朋子というんだ。ここへ|頼《たの》むよ」
「かしこまりました」
ドアが|閉《し》まった。和彦の声だ。
朋子は、仕切りの|壁《かべ》に、じっと頭をもたせかけた。この向うに、|彼《かれ》がいる。手に手を取って、遠い町へ|逃《に》げようと、彼女を待っているのだ。
ドアを開け、|廊《ろう》|下《か》へ出て、|隣《となり》のドアを|叩《たた》く。それだけのことだ。それで、新しい人生が始まる。
朋子は目を|閉《と》じた。隣のソファで、落ち着かない様子でタバコをふかしている和彦の|姿《すがた》が、まるで目の前にいるように、はっきりと|浮《う》かんで来る。
朋子は|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見た。五時五分。
店の入口の|扉《とびら》が|押《お》されているはずだ。
「いらっしゃいませ」
男の声が、|微《かす》かに聞こえる。
朋子は立って行って、ドアを開けた。田沢が入って来たところだった。
朋子の|姿《すがた》を見ると、田沢は、
「いいんだ、分っている」
と男へ千円|札《さつ》を何|枚《まい》か|渡《わた》して、|肯《うなず》いた。
やって来た田沢へ、朋子は軽く頭を下げた。そして、和彦の入っている部屋のドアを見た。
田沢は無言で|肯《うなず》いた。朋子は、自分の部屋の中へ|戻《もど》った。
隣のドアを叩く音がした。
朋子はソファの上に上ると、仕切りの|壁《かべ》に耳を押し当てた。
「やあ――」
和彦の声が、ドアの開く音と共に|途《と》|切《ぎ》れた。「お父さん……」
「|座《すわ》れ」
田沢の声は、|穏《おだ》やかだった。
「彼女は? 彼女はどうしたんだ?」
和彦は|昂《たか》ぶった声で言った。
「落ち着け。まあ座れよ」
「彼女は?」
少し間があった。二人がソファに座ったようだ。
「彼女は来ない」
「なぜ?」
和彦は食いつくように言った。「彼女をどうおどしたんだ!」
「何もおどしたりせん」
「|嘘《うそ》だ!」
「いいか、よく聞け」
田沢の声は、静かだが、よく通って、|有《う》|無《む》を言わさぬ|圧《あっ》|倒《とう》|的《てき》な力がある。「――あの|娘《むすめ》は自分から私の所へ|連《れん》|絡《らく》して来たのだ」
「連絡?」
「お前が今日の五時にここへ来ているはずだとな」
「そんなはずが――」
「彼女に聞かずに、どうしてここが分るというんだ?」
和彦は|黙《だま》った。
「お前はあの娘を|好《す》きかもしれん。あの娘だって、そうかもしれない。しかし、あの娘が好きなのは、銀行員のお前で、|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》や、|泥《どろ》|棒《ぼう》のお前じゃない」
和彦がハッとするのが、気配で分った。
「あの金はどうした?」
「金って……」
「分っているんだ。残高が合わなかった。お前が持ち出した三百万のことだ」
間があって、田沢が続けた。「――いいか、あの娘はその金を見てしまった。それで|怖《こわ》くなったのだ。当り前だろう。|一《いっ》|緒《しょ》に|捕《つか》まれば|横領《おうりょう》の|共犯《きょうはん》だぞ」
「これは……返すつもりだったんだ」
「|馬《ば》|鹿《か》め!」
田沢が|鋭《するど》く言った。「返すつもりで|盗《ぬす》んだといえば、|罪《つみ》にならんと思うのか!」
和彦が何か低い声で|呟《つぶや》いた。朋子には聞き取れなかった。
「あの|娘《むすめ》は父親が|横領《おうりょう》の|罪《つみ》で追われているんだぞ。そのために散々苦労したのだ。そんなことは二度とごめんだと考えて当り前じゃないか」
「でも……」
「ともかく、その金をこっちへよこせ」
少し間を置いて、|鞄《かばん》のファスナーを開ける音がした。
「――よし。この三百万は、今のところ、まだ不明ということになっている。どこか支店の金庫の|隅《すみ》にでも放り|込《こ》んでおいてやる」
「お父さん……」
「何だ」
「|彼女《かのじょ》は……|僕《ぼく》のこと、何か言ってた?」
「さあ。どうだったかな」
「教えてくれよ!」
「いい|加《か》|減《げん》に目を覚ませ!」
田沢が|激《はげ》しい調子で言った。「お前はあの女に|同情《どうじょう》した。それだけだ。――|恋《こい》だの愛だのといったことは、お前には分らんのだ」
「|違《ちが》う、そんな――」
「お前は利用されただけだぞ、分らんのか?」
「どういう意味だい?」
「少しは目が覚めるかと思ったぞ。――全く、どうしようもない|奴《やつ》だ。あの女はお前との手切れ金を受け取った。それでもお前はまだこりずについて行く。あの女にとってはお前はいいカモというわけだ」
「お父さん! それ以上言うと――」
「何だ?」
田沢は切り返した。「あの女は、ここを教えて、お前が三百万の金を盗んだのを|黙《だま》っている代りにと金を|払《はら》わせたんだぞ」
「|嘘《うそ》だ!」
「嘘か? それなら、なぜここへ来ない? なぜここを|私《わたし》に教えたんだ? もし、お前に|泥《どろ》|棒《ぼう》の|真《ま》|似《ね》をさせたくないなら、自分で来てそう言えば良かろう。お前たちは|一《いっ》|緒《しょ》にどこかへ|逃《に》げるつもりだったそうだな」
「そうだよ」
「それなら、金を返させて、その上で一緒にどこへでも行くのが本当だろう。私に教えて、|任《まか》せたのは何のためだ?」
――長い|沈《ちん》|黙《もく》があった。
細い、すすり|泣《な》きの声がした。
「もういい」
田沢が静かに言った。「|若《わか》い内は、これも一つの勉強だ。お前は|危《あや》うく、取り返しのつかんことをやるところだった」
「お父さん……」
「私に|任《まか》せろ。この金のことはちゃんと始末をつける。お前はフランクフルトへ|発《た》てばいい」
「でも……もう……」
「心配するな。全部手配してある。――いいか、向うへ行ったら、今度のことは何もかも|忘《わす》れてしまえ。 分ったな?」
田沢が、息子の|肩《かた》を軽く|叩《たた》く音がした。「よし。分ればいい。――あの女のことは心配するな。もうお前には近付かんだろう。フランクフルトへ三年も行っていれば、|総《すべ》てが変ってしまうものさ」
田沢が立ち上ったらしい。|靴《くつ》|音《おと》がして、コートを手にする音がした。
「さあ行こう。今からハイヤーで飛ばせば、予定通りに乗れる」
――朋子は|唇《くちびる》をかんだ。|涙《なみだ》が|溢《あふ》れ|出《で》て、|頬《ほお》を流れ落ちて行く。
「――お父さん」
ドアを開く音がして、和彦が言った。
「何だ?」
「ごめんよ、心配かけて」
「もういい。|忘《わす》れるんだ」
ドアが|閉《し》まった。
「ありがとうございました」
遠くで声がして、重い|扉《とびら》がきしんだ。
朋子はソファに伏せて、|泣《な》いた。――だが涙は、それほど続かなかった。
ソファに起き上ると、朋子は、大きく何度か息をついた。
ドアがノックされた。
「はい」
「あの――何か飲み物をお持ちしましょうか?」
「いえ、|結《けっ》|構《こう》です」
朋子はそう答えると、バッグから、ハンカチを出して顔を|拭《ぬぐ》った。コンパクトの鏡に、自分の顔を|映《うつ》して、
「ひどい顔してる……」
と|呟《つぶや》いた。
|仕《し》|度《たく》をして、コートを手に、部屋を出る。
「ありがとうございました」
と受付の男が言った。
「あの、料金はいくらですか?」
とバッグを開けると、
「もういただきました」
と答えて来る。
「え? でも、さっきのお金は別に――」
「いえ、先に出られた方が、二部屋分だとおっしゃって」
「そうですか……」
田沢が|払《はら》って行ったのだ。
コートをはおって、外へ出ると、たちまち|凍《こお》るような風が|吹《ふ》きつけて来て、朋子は首をすぼめた。
どこへ、というあてもなく、歩き出した。
――もうすっかり外は暗い。
そろそろ会社が終って、サラリーマンやOLの|姿《すがた》が、新宿の|街《まち》に見え始めている。
|木《こ》|枯《がら》しが、朋子の|頬《ほお》の|涙《なみだ》をたちまちの内に|乾《かわ》かして行く。――泣いている|暇《ひま》はないんだ。そう朋子は|呟《つぶや》いた。
ふと、ショッピングビルの前で足を止めた朋子は、中へ入って、赤電話を|探《さが》した。
かじかんだ手を|握《にぎ》ったり開いたりして、十円玉を入れると、ダイヤルを回した。
「はい」
すぐに、美幸の声がした。
「名前を言いなさいよ、電話に出たら」
「何だ、お姉さんか」
「何だ、じゃないわよ」
朋子はちょっと|笑《わら》って、「久米君は?」
「今日、バイト」
「|遅《おそ》いの?」
「十時|頃《ごろ》ね、帰るの」
「そう」
「今どこからかけてるの?」
「新宿」
「会社の帰り?」
「今日はさぼったの」
「|私《わたし》には学校さぼるなって|怒《おこ》るくせに!」
「お金|払《はら》って行くのと、もらって仕事するのじゃ|違《ちが》うでしょ」
「|理《り》|屈《くつ》ね。何してるの?」
「何も。――|暇《ひま》だったら出て来ないかと思って」
「寒いじゃない」
「|若《わか》いくせに何よ」
「何か買ってくれる?」
「|金《きん》|額《がく》|次《し》|第《だい》ね」
「じゃ行く!」
「|正《まさ》に|現《げん》|金《きん》ね」
朋子は|苦笑《くしょう》して、「じゃ……今、|三《みつ》|越《こし》の近くなの。どこか場所知ってる?」
「ケーキのおいしい店があるの」
「そういうことには|詳《くわ》しいのね。どこ?」
朋子は説明を聞くと、「分ったわ。三十分?――四十分かな」
「店にいて。すぐ出るから」
分った、とも言わない内に、電話は切れた。朋子は受話器を|戻《もど》して、息をついた。
表に出て、美幸の言った店に向って歩き始める。風の冷たさが、いくらか|和《やわ》らいだような気がした。
年の|暮《く》れが|迫《せま》っているのだ。――人々があわただしく歩いて行く。
見上げると、デパートの前面|一《いっ》|杯《ぱい》にクリスマスツリーを形どった、イルミネーションが|輝《かがや》いていた。
光と、音楽、そして|雑《ざっ》|踏《とう》。
朋子は、その海のような広がりの中を歩きながら、今、行くべき場所があることが、|嬉《うれ》しくてたまらなかった。
かけぬける|愛《あい》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成 12 年 12 月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒 102-8177 東京都千代田区富士見 2-13-3
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■ (C) Jiro AKAGAWA 2000
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角川文庫『かけぬける愛』昭和 62 年4月 25 日初版刊行
平成5年2月 20 日 25 版刊行